2012年12月31日月曜日

ご破算で願いましては

新年を迎えて皆様の幸せと健康を心からお祈り致します




 「御破算で願いましては・・・」とは私たちが子どもの頃、算盤の練習や計算をするのに当たって必ず言われた言葉である。全てゼロに戻し、計算をやり直すぞということである。年末から年始にかけて、今回ほど「御破算で願いましては・・・」という言葉が心を過るのは余りあることではないような気がする。選挙では民主党が大敗し、自民党が地滑り的な勝利を収めた。都政も新しい知事を迎えた。未来の党も出来たと思ったら分裂した。ものが出来たと思ったら変形し、つぶれて行くのは世の常かもしれない。それにしても、世の中の全ての事が改めて仕切り直しを必要とし、再出発をして、地球と人類の将来を明るいものにしなければならないのに、どうだろう、変わらないのは日本国民と政治家の心のあり方と短期的な視野。みんな自分の利益と目先の「経済」の事のみを最優先とし、震災からの復興のための緊急課題、つまり、除染であるとかがれきの始末、原発の問題などは余り注意を惹かぬように見える。特に、放射能による子どもたちへの健康上の影響、つまり将来の命の問題などは全く話題にもなっていない。

 我々日本国民というのは自分たちの手で現状を打破し、改善しようとする精神にかけているのだろうか。目に映るのは、「民主がだめだから自民に」という安易な精神。自分たちの心がけをただし、生活そのものを根本的に変えて、大気温暖化や異常気象に対処しようとか、将来の生命に影響のある原子力発電にどう対処しようというような動きは感じられない。他人任せ、お上依存の徳川以来の政治に対する文化であろうか?

 今の日本に必要なのは、女性の自覚と、「世の中を、子どもたちの世界を安全なものにするんだ」と言う女性の活動である、政治活動への積極的な参加である。今回の衆議院選挙で女性議員の数は大幅な減少を見た。世界で一番教育を受けているのは日本の女性。その女性が政治に参加するのにしり込みをするのは納得できない。子どもたちの期待を裏切るものである。今の日本をかくもひどい状態にしたのは、全て男性のしてきたことである。女性の視点が政治に全く反映されてこなかったということだ。世の中を良くしようと思えば、女性が積極的に政界に進出し、女性の視点、希望が政治に、政策に繁栄されなければならない。女性の引っ込み思案は日本の将来の為に、また世界の平和の為に、いただけない。更に政治家は女性の声に真摯に耳を傾ける努力をすべきである。

2012年12月10日月曜日

秋なすび

 日本には昔から「秋茄子は嫁に食わすな」という言い伝えがある。これに関して、嫁が憎いから美味い秋茄子は食べさせてあげないという、「嫁いびり」または意地悪だという説がある。一方、秋なすびそのものが大変に「陰性」な野菜であり、美味で食べ過ぎる傾向があるので、嫁さんが流産をするかもしれないと、戒めているという説もある。現在大流行の「いじめ」という観点から、最初の説が正しいと思う方も多いだろう。でも私は、第二の説を支持するものである。


 茄子、トマト、ジャガイモ、白砂糖、などは極端に陰性の食品である。このような野菜を普段沢山とっていると身体の細胞が膨張する。そして流産を誘発しやすくなる。加えて、最近の市販の食品は押し並べて「陰性」である。それは必ず砂糖、添加物、着色剤などを含んでいる、そして、それら全てが「極陰」である。秋になると種々の果物が市場に出回る。ミカン、オレンジ、りんご、ぶどうと限りがない。いずれも甘く美味である。そして、殆どの産物は農薬や化学肥料のご厄介になっている。これらのジュースも出回っている。これらもまた陰性の食品である。であるから、現代人は秋から冬にかけて季節が冷え込んでくるときに陰性の食品を口にし易くなるし、身体が冷え込み、細胞は膨らみ、風邪を引いたり、妊娠している人たちは流産をしたりしやすくなる。そこに、「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉が意味を持ってくるし、「屋敷内には果物の樹を植えるな」という警鐘の意味も、先人の知恵と受け止めることができる。特に女性が気をつけなければならない食品には上記の食品の他に砂糖と乳製品がある。アイスクリーム、チョコレート、ヨーグルトなどをとり続けていると、乳がんや骨そそう症などにかかりやすくなる。

 上記陰性の食品に対して「陽性」の食品とは肉、魚、塩などである。私たちは普段食事にさいして陰陽のバランスをとるような食べ方をしている。例えば、大変に陽性のビフテキの付け合わせはジャガイモ、生野菜のサラダ、飲み物はアルコール、食後は甘いケーキと全て陰性である。陰か陽に一方的に偏った食事をしているとその反対のものを身体が要求する。身体に良い食事とは、陰にも陽にも極端に偏らない「中性」のものを頂くことである。全粒穀物は最も中性のものであるし、野菜は必ず火を通したものを頂くとよい。現代人が気をつけなければならないのは、偏らぬことである。デパチカで売っている食品など添加物が山ほど入っている。ありとあらゆる食品には砂糖と添加物が入っている。

 毎日の食事には気をつけよう。好きなものだけ食べず、飽食せず、成人病を未然に防ぐ食事法をとりいれよう。そして、健康で死ぬまで世の為、他人の為につくせる生き方をしよう。

2012年11月26日月曜日

いのち 12

 先日みのもんたの番組で年金問題を取り上げ、これからの老人の負担が増大すると活発な意見を戦わせていた。考えてみれば、年金問題だけでなく、国家および個人の医療費も年々増えるのみで、日本の財政破たんは近いうちに訪れるのではなかろうか、また、老人の夢見ている社会保障の行き届いた安心の生活など夢のまた夢でしかないということに気付く。高齢化がどんどんと進行している日本の社会にあって政策や対策が近視眼的、その場限りということが問題解決を先送りしているのだ。


 一方、国民は豊かさを満喫し、好きなだけ、食べたいものを食べ、飲みたいものを飲んでいる。そして、肥満体が増え、血圧が上がり、生活習慣病が蔓延する。心身の機能が低下する。そして、現行の制度のもと、少しでもどこか具合が悪ければすぐ医者に駆けつける。医者はありとあらゆる診断法を使って慎重な診断を下す。そして、簡単に手術を行い、多量な薬を処方する。薬品業界と保険業界があの手この手で業績を伸ばす努力をする。かくして、国民は自ら健康管理をすることなく、全て「政府・医者まかせ」で、結果は「医療費の増大」である。

 病気にならないように、不断の努力をする人は数えるほどしかいない。一旦、病気にかかってしまえば、日本の医療制度はいくらでも対策を講じ、お金もどんどんと使われる。ただし、病気にならないための努力に関しては、予防法も予算も全くお粗末である。そして、その結果、国家の医療費がウナギ登りというのは頂けない。こう考えると、日本の社会はどこか狂っているとしか考えられない。本当の意味での「公衆衛生」というか「健康のための教育」というものが欠如しているのが日本の社会ではなかろうか?

 病気にならず、健康を維持するために必要なものは「足るを知る」ということである。好きだから、とか、美味しいからという理由で、好きなものを際限なく食べれば時を経ずして必ず病気になる。同様に、毎日、添加物の入った食品を口にしていれば、体は音をあげるだろう。骨も脆くなり、記憶力も低下する。節度のある食生活を維持し、頭を使って身体に良い食物を選んで頂くと言う努力はそれぞれの市民がすべきことである。そこで、私たちは「事前の選択」を迫られることになる。手遅れになる前に私たちはライフスタイルを確立し、死ぬまで健康に、医薬にそれほどお世話にならずにすむように節度のある生活をしなければならない。さもないと、国家の医療費は際限なく上昇し、老人の生活は尊厳のないものとなろう。

 どんなライフスタイルを選択し、どの様に生きて、どのように死んで行くのは個人の考え方しだいである。でも、あなたの選択が後に続く世代に精算を迫ることとなろう。さあ、あなたはどんな決断をし、どんな余生を送るのだろう?

2012年11月10日土曜日

環境革命



 近年の日本の気候は「異常」と決めつけてもおかしくない状態である。世界各地でもここ数年にわたり大災害が報道されている。最近ではアメリカ東部のニュージャージー州とニューヨーク州でハリケーンによる大災害が報道されたばかりである。大気の温度が徐々に、そして、確実に上昇している。北極の氷の層は薄くなり、その範囲もせまくなっている。世界各地の氷河も氷山も融解の速度を増している。海水の温度が上がり、暖流が広がっている。その結果として、異常気象が世界各地で起こり、干ばつや水害、突風、山火事が日常茶飯事となり、人命が、自然環境が損なわれている。今や気候変動が現実のものとして我々の喉元に突きつけられている。

 この気候変動の原因は人間の経済活動だと決めつけることができる。少しでも豊かになろう、利潤を最大にしよう、安楽な生活をしようと、産業革命以来努力してきた結果であり、そのために払わなければならない代償なのだ。化石燃料の使い過ぎでしかない。だが、人間は「まだよ、まだよ」とか「他に方法があるの?」と呟きながら、生活を、産業を、生産方法を変えようとしない。そして、世界の終末に向かってまっしぐらに突き進んでいく。

 東京大学の山本良一教授によれば、産業革命以前にくらべて、大気の気温が1.5~2.0度C上昇すれば地球は危険状態になるという。現在もうすでに0.8度上昇しているのだ。1.5度上昇すればインド洋のさんご礁が死滅し、グリーンランド氷床の全面的融解が始まるとのこと。2.0度で海面上昇が観測され、サイクロン、台風、ハリケーンが多発。結果として1200万~2600万人が難民となり、 10-28億人が水ストレスに悩むことになる。そして世界のさんご礁の97%が死滅。食糧不足と世界的な飢餓が同時に発生する。今すぐ大気温暖化ガスの放出を止めても、気温は後0.5度上がる。更にその後0.5度はあがるだろうと言われている。すると、我々は遠からず1.8~2.0度の上昇は覚悟しなければなるまい。

 いま地球は自然界から最後通告を突きつけられていると言っても言い過ぎではあるまい。「生活や生産方法を根本的に変えるのか、それとも、今まで通りの生活ややり方でこの困難を乗り切るつもりなのか?」、ということだ。今我々が覚悟を決めて「生き方」や化石燃料への全面的な依存をすっかり改めなければ、遠からぬ将来に世界は食糧危機に直面するだろう。世界各地で頻発する干ばつや水害のため食糧生産は阻害され、僅かにとれる穀物はエネルギーと食糧の間で綱引きされ、価格は急上昇するだろう。結果としては、途上国貧困層における飢死急増または飢餓の蔓延ということになる。先進国でもエネルギーと穀物の価格が天井知らずとなり、生活に窮乏する人が増えるだろう。

 大気温暖化の元凶、二酸化炭素は現在のところ海と森林に吸収されている。ただ問題は2050年ころまでには、海は二酸化炭素の量が増えすぎて吸収の能力が低下してしまうとのこと。更に森林は、土壌はそれを吸収するより放出しだすであろうと予告されている。従って、我々は今直ぐ二酸化炭素排出量を80%削減しなければならない。そしてこれは我々の子や孫たちの生死に関る問題であり、覚悟を決めて、国を挙げて、対処しなければならない問題なのだ。

 まず、日本の首相は国際社会で世界を救う為に思い切った提言をし、そして、他国に先駆けて日本がその提言を実施する決意を表明すべきである。今の政治の在り方では、誰も日本を相手にしてくれなければ信用もしてくれないと知るべきだ。

 地方自治体の首長ははっきりとした地球温暖化を止めるための指針を示し、各公共機関には太陽熱発電のパネルを設置することを義務とすべきだ。公用自動車は全部ハイブリッド・電動に切り替える。企業の経営者はあらゆる事業所におけるエネルギー節約と車、その他の車両による燃料使用量削減を打ち出し、エコ・イノベーションを表明すべきだ。同時に水素燃料の開発に力を入れるべきである。学者、有識者、市民組織の代表は市民の意識改革に責任を持ち、啓発に努める要がある。今や個人の不便を理由に環境改善に反対すべきではない。

 今必要なのは言い訳ではない、将来を守るための行動なのだ。

 どうだろう、日本政府はあなた方の将来を本気で守ってくれるのだろうか?

 政界の、財界の指導者たちには本気で国民の将来と命を守ろうという気概が見られない。政府が本気でやらないのなら、市民がやるしかない。市民が、特に、青年が人に先駆けて行動を起こさなければ、後に続く世代に顔向けができまい。私達の生活と経済活動が引き起こした大気温暖化は市民一人ひとりの問題だ。市民が、若者が、学生が真っ先に取り上げるべき問題だ。必要なのは「既成概念大転換」と言うことである。考える土台、チャンネルをまったく変えるということだ。今までの考え方を一寸だけ変えることではない。今や「非常時」なのだ。立ち上がる時が来ている。環境革命を起こさなければならないのだ。

2012年10月29日月曜日

いのち 11


  最近、電磁波環境研究所所長の荻野晃也氏の電磁波・放射能に関する講演を拝聴する機会を得た。改めて、私たちの日常生活が、子どもたちの健康が、自分たちの電磁波に関する知識不足と企業や政府から流れる情報によって脅かされているかを知って愕然とした。


 とかく私たちは生活する上で「便利さ」や「安さ」を判断の基準にする傾向がある。そして、快適さやスピードを当然なものとして、その払うべき代償に関しては余り関心を持たない。そして、私たちは電磁波を出す機器や物に囲まれて無邪気に生活している。

 高圧線、IHクッキングヒーター、AMラジオ、テレビ、携帯電話、電子レンジ、レーダー、赤外線や紫外線、そしてX線や放射能。家に居ても、外出しても、歩いていても、電車に乗っていても、新幹線に乗っていても、飛行機で空を旅するのにも電磁波から逃れることはできない。おまけに最近では、食事をするたび、呼吸をするたびに放射能の事が気になる。

 日本の国民、成人には携帯電話が行き渡り、今では「小学生の子ども」に携帯を持たせようとの運動が展開している。これに関しては子どもたちの健康に及ぼす電磁波の影響が議論されていないが、実際には電磁波が子どもの頭の中に侵入し易いことが心配の種であるようだ。子どもたちの「頭が小さいこと」、「頭蓋骨が薄いこと」、水分が多いことに関係があるようだ。最近ではその他にアルツハイマー病や痴ほう症を引き起こすのではないかという研究が幾つもあるようだ。また「極低周波」が精子に悪影響を及ぼすという研究が話題になっているようでもある。更に妊産婦は電磁調理器の使用を避けるのが望ましいという警告もあるようだが、一般には知られていない。特に気をつけなければならないのは、床暖房とか電気毛布。これらは電磁波にくるまって生活するということだから消費者としてはそれなりの覚悟が必要だろう。電磁波に過敏な「電磁波過敏症」の人が見出されたのは1980年代で、患者は心臓圧迫、ストレス、精神不安、頭痛、睡眠障害などに悩むむそうである。自分を含めて、この「電磁波過敏症」に悩む人は数多く存在すると思うが、日本ではまだ診断方法が確定していないそうである。私がただ一つ防止策を講じているのが、“Q link” を首からぶら下げたり、コンピューターの所に水晶玉を置いたりすることで、どの程度防御が講じられているのか判然としない。

 以上簡単に電磁波に関する情報を紹介したが、問題は日本中どこに行っても何をしても電磁波、高周波の影響を受けると言うことである。政府や業界は電磁波回避や予防に関して何かをしてくれるという可能性は極めて低い。そうなると、我々国民が一人、一人電磁波対策を身に付け、少しでも、自分たちや子どもたちの健康を損ねないように努力をするしか方法がないように思える。特に、妊娠中のお母さん方、小さな子どもたちを少しでも電磁波や放射能から身を守るよう祈るのみである。

2012年10月15日月曜日

いのち 10

 以前にも書き述べたことだが、いのちを全うするのには毎日何を頂くかと決めることが、最も簡単ではあるが、最も重要な決断である。即ち、私たちは食物の持っている「生命」を頂き、それによって自分のいのちを育んでいるからだ。そのため、私たちは自分が食べる食品のうちで、何に生命が宿り、何に生命がないかということを理解しなければならない。


 どうだろう、工場で製造され、添加物だらけの加工食品にいのちはあるのだろうか?屠殺場で殺され、分解され、販売される動物の肉類に生命はまだ宿っているのだろうか?大量生産される鶏卵にいのちはあるのだろうか?農薬と化学肥料に依存した畑で作られる野菜や穀物にいのちはあるのだろうか?外国から輸入された食品や果物にいのちはあるのだろうか?

 それぞれの食品について、いろいろな人がいろいろな意見を述べている。それが科学的な所見やテストに基づいているかどうかと、頭から考えを拒絶する人も多い。半面、長年の経験と英知に基づいて、自分の信ずる食生活を守る人も多い。いずれにせよ、私たち庶民としては、この情報の飛び交う社会においては、すこし勉強して、自分のいのちを守り、育くんでくれる食品を選ぶしか途はない。そして、それは個人的な責任においてやるしかない。

 総合的・常識的に考えると、先ず、健康の為には、有機農法で生産された穀物や野菜などの食料を選ぶことではなかろうか?それから、出来得る限り、私たちは日本国内で生産された有機農法の食品を優先させることであろう。これを「身土不二」と言って、日本では昔から推奨されている農法・食べ方である。見た目に綺麗で、口に入れれば美味というだけでいのちのない、または、生命力の弱い食品は敬遠した方が良さそうだ。遺伝子操作をしたもの、人工飼料で飼われた動物や魚介類も遠慮した方がよいだろう。また、避けた方が良いものには人工飲料、白砂糖を沢山使った菓子類、乳製品、アルコールの過剰摂取、たばこやドラッグなどがある。

 現代人は押し並べて忙しい、時間がないという理由で、食事を手抜きのもの、つまり、ファーストフッドですます傾向がある。押し並べて、健康に良い食事は作るのには比較的時間がかかる。このような事情におされて、現代では食事がどうしても簡単で、高たんぱく、高カロリーになってしまう傾向がある。それが長い間には私たちを肥大化し、体内に脂肪を貯め込んで健康を少しづつ損なわしめている。もう一つ気づくことは、同様な理由で、未精白の穀物は固い、まずいと頭からきめて、その様なものを食べる位なら死んだ方が良いなどとほざく輩も相当いる。こういう人たちは「太く、短い」一生を終えることが多い。でも、覚えておいてほしいのは、健康に良い食事は「不味く、固い」必要はなく、いくらでも美味しく料理できるということだ。

 どうだろう、口に入れて「ああ美味い」と感じ、固からず、健康を促進してくれ、おまけに「医者いらず」の身体にしてくれ、何歳になっても他人様のため、世間の為に駆け回れる身体をつくる食事があったら、そういう食事を取り入れることを考えるべきではなかろうか?おまけに、この食事法は食費全体が非常に安くなるのだ。自分の老後の為、子どもたちの将来の為にご一考を促したい。

 この健康法・食事法は「マクロビオティック」という。少しでも多くの人がマクロビオティック健康法・食事法を取り入れ、健康になり、生活習慣病に無縁で、日本の医療費の出費が減少することを願っている。

2012年9月16日日曜日

いのち 9

 いのちを健やかに・・・と考えるとき、いのちを育て、守る食べ物を頂く必要に関しては前編に述べた通りである。だが、それは何をどうやって頂くかというちょっとした「決定」又は工夫を必要とする。その決定は、たとえ小さいものであろうと、生まれてこの方叩き込まれてきたもの、知識、経験に基づいているし、その決定のなされる時点での心のあり方に左右される。間違った選択をしないためには、私たちに健全な知識とこころの平静さが求められる。


 人というものは、生きている限り、外部からの刺激に絶えず反応し、振り回されている。それはお天気であったり、美しい景色であったり、騒音やおいしそうな匂いであったりして、私たちは無意識に、またある時には、意識的に反応を示す。その反応は人を次から次に連想に誘い出したり、何かしらの行動を起こさせたりする。そしてこれが際限なく続くので、人の心はなかなか集中できない、間違った選択をする、いらいらする、など休まる暇がないということになる。

 私たちは絶えず物忘れしたり、外からの刺激に過剰に反応したりで悔やむことが多い。他人様の話をきいて、自分の価値判断で直ぐに決めつける、裁く、責めると言うようなことを繰り返し勝ちである。自分の意見や価値基準と違うものに対しては寛容ではない。無意識に行っているのは自己の正当化であり、差別であり、不寛容である。これが日常行われているのが「いじめ」であり、洋の東西を問わず、有史以来行われてきている戦争と殺し合いである。これと反対に、どの様な意見を聞こうとも、世の中の人は必ず自分とは違う意見を持っている、100人いれば100の違う意見があると理解すれば心は平静である。まさに、金子みすずの「みんな違ってみんないい」という精神である。そこに、自分より弱い立場にある人々や気の毒な人々に対する「思いやりの念」があれば、あなたのオーラは平和なものであろう。そうなると、あなたは常に正しい選択をし、周りの人々に平安なエネルギーを発することになる。

 私たちは絶えず「現在」に集中することなく、次から次へと考えを飛ばし、結果としていらいらしたり、間違いをしたりすることを繰り返す。そして、物忘れをしたり、他人さまといさかいをしたりする。心がこういう状態だと、私たちは衝動的な行動を取ったり、後悔をするような決断を下したりすることが多い。つまり、いのちを大切にするような行動はなかなかとれない。

 いのちを育むためには、心が絶えず平静であり、自分の周りの全生命に対して思いやりをかけ、全ての安寧の為に祈り、そのために必要かつ可能な行動をとることが求められる。どうすればその様な状態を入手できるだろうか?

 私自身の経験では、座禅や瞑想が役に立つ。とくに「ビパサナ瞑想」が効果的であった。この瞑想によって比較的容易に集中力とこころの平静が得られる。すると判断が正しいものとなる。自分の執着や好き嫌いによって生活が振り回されることが少なくなる。更に、それによって、世の中のありとあらゆる生命に対して「愛」をもって接することを覚え、いのちを育むことを身につけることができるようになる。自分が「生きている又は生かされている」ことに感謝し、謙虚に、ほどほどに生活すれば、自然を大切にしよう、いのちを大切にしようという気持ちを持つだろう。そして、自分の言葉が、行動が、他人様や自然に対して大変な影響力を持っていることに気付くであろう。何をすれば、少しでも他人様の為になるのか、または、世界やまわりの社会に貢献できるのかということにも気付くものである。それを行動に移すと、それが「生きがい」になる。

 私の数多い友人の中で、健康で、長寿で、医療のお世話になることの少ない人たちは例外なく、「功成り、名を遂げた」後に何かしらの社会貢献をしている。いのちを全うするのには、先ず心が絶えず平静で、謙虚な生活をし、生き甲斐を持つことであろう。

 私たちのいのちのあり方を決めるのは私たちが何を考え、何をするかにかかっている。それは政府でも、政治家でも、医師でもない。あなた自身なのだ。

 健康を守る上で欠かせないのが「運動」である。身体を動かそう。できれば週二、三回は運動しよう。散歩でも、スポーツでも、家事でもいい。身体を使うのだ。避けなければいけないのは、一日中テレビにかじりついて安楽な生活をすることだ。これは痴ほう症への近道である。

 さあ、みんなで健康で楽しく生活しよう。そして、少しでも美しい地球を子や孫たちに残していこう。

2012年8月30日木曜日

いのち 8

 この世の中、どんな人生を送るのか?何を目的として生きていくのか?


それが何であろうと、先ず心がけならないことは「心身ともに健康で、病気にならないこと」ではなかろうか?若いうちは、ともすると、自分が病気になるとか、死ぬとかについては余り考えず、心の命ずるままに食べ、飲み、活動し、精いっぱい生きていこうとする。そして、「健康管理」などということは心の片隅に追いやられているのでなかろうか?でも、人間、常に健康で元気でなければ何も成就出来ないのは明白の理である。無茶な生き方をしていれば、時を経ずして必ず病気になる。そして、それは時として「ガン」であったり、成人病と呼ばれる糖尿病や心臓まひであったりする。ガンなどの病気となると、普通の人は慌てて病院に駆けつけ、手術、化学療法、放射線治療、などと現代医学のお世話になるのが普通である。しばらくすると、医師から「はい、あなたの体内からガン細胞が消えました」という御託宣を頂く。しかしながら、非常に多くの場合、同時にあなたの免疫力・自然治癒力そのものが一連の対ガン治療で低下し、その御託宣の後間もなくこの世におさらばというケースが多い。

 こう考えると、私たちは「生き方=健康管理」に対する認識を根本的に変える必要があることに思い至る。つまり、あなたが生きていく上で、どう生きていくのか、どうすればいつでも健康で、活動的でいられるかということを普段から考え、お医者さんや薬品のお世話にならずに済むかという「すべ」を身につけなければならないということである。 

 人が健康に生きていく上で留意しなければならないことは、少なくとも三つある。その一は、何をどうやって食べるかということである。その二は、普段どの様な「心がけ」で生活をしていくかということ、第三は身体を動かす努力をすることである。

 こう並び立てると、案外簡単だなと思われるかも知れないが、実行となると迷いが出たり、「理性」や「科学的知見」が働いたり、執着や他人の意見に振り回されたりされ勝ちである。

 先ず第一番目の食事について考えてみよう。私たちが毎日食べるものが生きて行くうえで不可欠であり、食べたものが体質や気質を形づくっていくことに関しては議論の余地はないであろう。つまり、お菓子や果物など甘いものや、水っぽいものが好きな人はいつの間にかぶくぶくと肥って、どちらかと言えば、ニコニコとしている。その反対に、肉類が好きな人は固太りで、非常に活動的であると同時に直情決行型の人が多い。そして多くの人は、肉類が好き、甘いものも好き、アルコール類もよく飲む、そして、健康維持のための乳製品や薬品類も多用している。つまり、現代人は心の命ずるままに飲み、かつ、食らいて老いていく。そして、引退の時期になると、アルツハイマーやパーキンソンなどという厄介な病と直面せざるを得なくなり、他人様のお世話になって余生を送る破目になる。これは自分が夢に描いた「楽しい人生」であろうか、それとも、無意識に楽しく過ごした日々の結果が「悲劇」として終わるのであろうか? この選択はあなた自身が手遅れになる前にしなければならない。

 健康に生きようと思ったらそのための決意と努力が必要である。でもこれは大げさなことではない。一言でいえば、飲食に関しては必要な知識を仕入れ、生活を「ほどほど」にということにつきる。

 日本という土地で生まれ、そこで、健康で満ち足りた生活を志すのなら、先ず私たちの食生活において、口に入れるものは、住んでいる場所(日本)で生産された「旬」のものと言うことである。そして、これは、パイナップルやバナナは食べない、冬にはナス、トマトやキュウリなど夏の野菜は頂かないということを意味する。そして、生産され、販売されている食品は無農薬、有機農法によるものが望ましい。主食は出来る限り、精白されない全粒の穀物、つまり、玄米、が最も望ましい。味噌や醤油は有機、国産の大豆を使って時間をかけて熟成されたものを選ぶ。大根やニンジンは根の部分だけではなく、葉の部分も頂くことが推奨される。工場で生産され、添加物だらけの食品、白砂糖を多用したケーキ類、動物性蛋白やアルコールの摂取はなるたけ減らす、食事に際しては腹いっぱい食べず、お腹が満腹する前の80%位でやめておく、口に入れた食物は、最低50回くらいは噛むと言ったことを実行すれば健康と長生きは約束される。つまり、日常の生活においては贅沢な食事をせず、栄養価の高いものだけを食べず、全てほどほどに、質素に食べようということである。当然のことながら、ファストフッドやジャンクフッドは避けた方がよい。

 NPO2050の中国代表をしている孫若恒教授は今年97歳になる。彼は我々と共に山に登り、植林をし、現地の農民たちを指導しているバリバリの現役の方である。彼の食生活は「少食、質素、良く噛む」ことに徹していて、病気知らずである。

 私たち人間は宇宙や自然環境からのエネルギーなどの影響を受けて生きている。これらに関しては余り選択の余地はなく、人間が選べるのは「何を毎日食べるか」ということ位である。そして、その選択が一人ひとりの健康状態を決めて行く。つまり、自分の健康と生命は自分で守るということである。だが「選択」となると、自分の欲望、嗜好、執着、世間や学校で刷り込まれた科学的知見、医師や薬品会社の言い分などなどに振り回されて、何をどう食べるのかなど考えるのが面倒になりがちである。そうなると、これは第二の「心がまえ」または心の持ち方の問題となる。これは、この次に論じよう。

2012年8月18日土曜日

いのち 7







人と生まれても、いのちを比較的に「ないがしろ」にされているグループの人たちがいる。それは開発途上国に貧しく生まれた若い人たちだ。若い男女とは10歳から24歳までの年齢層で、世界に約18億人いる。この人たちは平均1日¥150前後で生活することを強いられ、そのうち1億人は学校にも行かしてもらえない。理由は「貧困」だからだ。国連事務総長の最近の報告によれば、「2010年末には7510万人の若者が雇用されておらず、雇用されていても1億5200万人は給料が低く危険な仕事についている・・・2000~09年には、後発開発途上国に住む20~24歳の女性の31%が18歳以前に出産している・・・毎日15~24歳の3000人がHIVに新規感染している。多くの思春期の少女や若い女性は性的な暴力や虐待に曝されている・・・アフリカでは1億~1.4億人が女性性器削除を受けている」とのことである。当然、少女の人身売買や児童婚も数限りなく見られる。

 元気に満ち溢れてはいるが、読み書きが碌に出来ず、定職もなく、毎日ブラブラしている若者たちが町にあふれ、集まって、興奮を求めるとなれば何がおこるであろうか想像するに難くない。そこに見られるのは社会不安であり、往々にして部族間の抗争であり、この様な若者を利用しようとする様々なグループである。そして、必然的に危険に曝されるのは同年代の女性たちである。そして彼らのいのちがいとも簡単に消えていく。多くの途上国の政情が不安であり、世界に争いが絶えないのも「むべなるかな」である。

 世界人口の1/4に当たる若者たちが年齢に応じて学校に行くことができ、世の中の秩序を守ることを覚え、まともな職に就くことができ、その上自分たちやまわりの人たちのいのちを大切にすることを学べば、世界は確実に平和に向かって行く。そのため、国際社会は事あるごとに、若者に教育を、職を、リプロダクティブ・ヘルスをと決議している。でも、現実は決して途上国の若者のたちにとって生易しいものではない。彼らが聞くのは常にスローガンであり、見るのは厳しい現実である。そして、政治家の不作為や私たちの無関心が彼らの信頼感を損ね、いのちを粗末なものとしている。

 国際社会は、MDGsの目標実現に向けてそれなりの努力を重ね、ある程度の成果を見せている。だが、私たちの努力は満足ということからは程遠い。彼らにとって必要なのは、1)正しいリプロダクティブ・ヘルスの情報であり、必要とするサービスの入手である。2)いのちを育み、健康に生活するための食料と情報の入手である。3)世の為に貢献する若人を育成する教育であり、職業訓練である。そして、4)男女を問わず、お互いに助け合い、慈しみ合うと言う精神構造である。これは、現在の国際社会の支援のあり方ではたやすいことではないが、やりようによっては効果を上げることが出来る。それは、先進国の若人たちを動員して、ピアー・エジュケーション(若者同士の相互啓発・支援)や人間開発プロジェクトを積極的に導入することだ。日本の「青年海外協力隊」やアメリカの「平和部隊」はその先駆けとなり得るし、様々な民間組織も途上国の需要に応えるプロジェクトを支援出来る。世銀や国連諸機関、先進諸国の政府が民間組織と手をつなげば、必要な資金、技術を提供できるし、お互いの長所を生かして、途上国の問題解消や政情安定にも寄与できる。そして世界が少しずつ平和に向かう。これはやれば出来ることである。

 各国の若者を動員して、正しい食べ方や生き方の勉強をさせればHIVや他の感染症に対して有効な対処ができる、教育の普及を図ることで児童婚や女児の虐待を減少させることが出来るし、女性に対する不平等や不当な扱いを減らして行くことが出来る。更に、教育は若者たちを社会の有用な人物に育てることができる。要は、こういうお手伝いが出来る人たちが「手を伸ばす」のか伸ばさないかにかかっているのだ。世界で不遇をかこっている若者に充実した人生を送らせ、世界の将来を明るいものにするのか、それとも、今の逼塞した状態に放置しておくのか、全て私たちの考え方や地球の将来にどう対処するのかという決意が重要なカギを握っているのだ。

 さあ、私たちは何をすれば良いのだろう? 今まで通り、自分のことだけ考えていれば良いのか、それとも、皆で世界の将来を明るいものにするために一歩踏み出すのか、この辺で決めなければならない。日本の若者が立ち上がり、世界平和の魁となることを願うのみである。





2012年8月1日水曜日

いのち 6

若し貴女のご両親が「うちは貧乏な上に、貴女は女の子なんだから」という理由で、学校へ行くこと、お医者さんにかかること、ご飯を男の兄弟と一緒に十分に食べることなどを否定した場合、貴女はどう感じますでしょうか?また貴女はどの様な人生を送ることを許されていると思いますか?貴女はたいていの場合、家庭内の男性の意思に振り回され、栄養不良で発育不全、人間としての存在を否定されるような経験を強いられるでしょう。先ず、読み書きのできない、自分の意思をはっきり述べることの出来ない半人前の存在で、水汲み、炊事、洗濯、家畜の世話などに従事し、長ずるに従って男性から「子どもを産む道具」としか認められない人生を送ることになるでしょう。そこには人間としての尊厳も基本的人権もありません。自由意思も許されません。5-6歳くらいから踊りを習わさられ人前で踊ることを強要されたり、売春をさせられたり、時には借金のかたとして歓楽街に売り飛ばされることも良くあります。


 アフリカ大陸あたりですと、戦争がおこり一国の軍隊が攻め込んできますと、戦略として、その土地の女性たちを兵士たちが片端から凌辱することが良くあります。また、女性性器削除や家庭内での「名誉殺人」、胎児が女性と判明した場合の中絶などなど、女性を標的にした男性からの不平等な仕打ちは数限りなくあります。この分では女性の命はいくつあっても足りません。

 現在、世界では2分ごとに一人の女性が妊娠・出産に関した疾病で亡くなっています。これは妊産婦が誰でも医療の恩恵に預かれば避けられることです。ですが、それが難しいのです。理由は?僻地に住む貧乏な女性の命を守ろうという政治的な決意が為政者(男性)の間に欠けているからです。先進国に住む私たちに、途上国貧困女性たちの運命に対する関心と思いやりの精神が欠けているからです。

 上に述べたことは南アジアからアフリカにかけて日常見聞できることのほんの一部です。日本の様に社会開発が進み、教育や保健制度の発達した国では想像もつかないようなことがまだまだ世界の女性の健康と命を脅かしています。私たち日本人が途上国の女性たちの為に出来る最低の事は、少なくとも、彼女たちが天命を全うすることができるようお手伝いすることではないでしょうか?日本が戦後社会開発を成し遂げたその教訓や経験を途上国の支援に役立てましょう。途上国の女性たちが新しいいのちを産むために自分の命をなくすことがないようにお手伝いをしましょう。そのためには、日本は国際社会で指導的な立場をとり、家族計画・リプロダクティブ・ヘルスの普及を図り、そのための国際支援を増額すべきではないでしょうか。日本の経済力から考えると僅かなお金で世界中の女性の命が救えるようになるのです。

 世界が平和になるためには、世界中のいのちが育まれ、人為的な理由や不作為によって人命が損なわれることがないということが大前提となります。具体的には世界中の女性が健康で、不平等や不合理に悩まされる事がなく、健全ないのちを産み、育むことの出来るということです。そして、家庭内で、地域社会で、子どもたちにお互いに愛すること、思いやりの精神を持つことを教えることでしょう。そのために、今必要なのは、女性に対する偏見や不平等を撤廃し、恵まれない女性たちに支援が行きとどく世界を作ることです。また、女性の声が世界の政治や経済で尊重され、政策に反映されることです。日本の国民と政府はかっての様に国際社会で音頭取りをしましょう。途上国の貧しい、恵まれない女性たちのいのちを救うためにODAを増額しましょう。そして、子どもたちの将来が安泰であるよう、世界中で殺しがなくなり、女性が不当な扱いを受けない社会を築くよう、皆で一歩踏み出しましょう。







2012年7月19日木曜日

いのち 5

 現代人は思い込みや偏った生き方をして寿命を縮めているとしか思えない。どんどんと飛び込んでくるマスコミの一方的な情報や「科学的で分析的」な医学上の情報に基づいて、身体が処理しきれないほどの量の食品添加物や化学薬品を、更に、自分が食べたいと思う食品を際限なく取り入れている。つまり、飽食であり、美食の極みを尽くしている。加えて、アルコールやジュース類の摂取量も大変なものである。タバコを吸う人もかなりいる。


 言い換えると、世の中の人は大部分が好き勝手な食習慣とストレスの多い生活習慣を取り入れ、心の安らぎを得ることが少ない生活を強いられている。そして、それらから逃れる術を知らないか、知ろうとしないように見受ける。そんな生活を15年も続ければ肥満、成人病は避けられない。つまり、好き勝手な生活をして、寿命を縮めているとしか言いようがない。

昔から、年をとっても健康で活躍している人たちを見ていると、例外なく、素食、少食であり、咀嚼も一口50~70回と、良く噛んで、時間をかけて食事をしている。お酒をたしなむ人もいるが、それも、酔っぱらうほどは飲まず、ほどほどである。このような人たちは例外なく人生においてやり遂げる使命を持ち、他の人の見解や考えに常に寛大であり、思い込みや自己主張が少ないように見受けられる。他人を裁かず、思いやりをかけ、ニコニコとしている。そして、彼らの存在そのものが周りの人たちに大きな安らぎを与えている。

最近の報道で大きく取り上げられる問題に1)被災地からの瓦礫の受け入れ反対という声と、2)「いじめと自殺」という二つがある。これらの問題は島国、地域社会、「お家」などに根差した「文化」そのものであり、自分たちの利益だけは守り、不都合なことは排除し、隠蔽するという特性を持っている。つまり、「瓦礫」の場合は「自分たちの地域社会の利益を守ろう、他の地域の人々の苦痛などにかまっていられない」という自分本位な意思表示である。まさに「何をか言わんや」である。

他方、「いじめ」は、日本国中、時代や年齢に関係なく、ありとあらゆるグループで大昔から行われてきたことである。村八分がその良い例であり、日本国中で、学校でも、会社でも、どんなグループでも、それを観察することができる。誰でも友達から揶揄され、悪口を言われ、意地悪をされた経験を持っている。つまり、日本人は異分子を嫌い、2-3の人が音頭を取り、自分たちの生き方にそぐわない人たちを糾弾し、気に入らぬ人をいびる。積極的にいじめに参加しない人たちは「見て見ぬふりをして」問題を悪化させる。そして, いじめが如何に陰湿であるか、残酷なものであるかと知っているのにも関らず、誰も声をあげて止めさせようとはしない。そして、いじめに関して罪悪感を持ちあわせていない。政界を見ても、日常の生活でも、助け合うとかお互いに思いやりをかけるなどという精神構造は希薄である。皆、知らぬ顔をし、責任をとらされないように隠蔽し、自分を守ることのみに汲々としている。

有識者がテレビで様々な分析や解釈をし、文科省がどうの、教育委員会がどうの、学校や先生たちがどうあるべきかなどと意見を述べているが、これは学校や教育委員会だけに押し付ける問題ではなく、国民の一人ひとりが責任を感じて、問題を解決しなければならないことである。つまり、各家庭で、子どもの成長過程で、小中学校を通じて、意地悪やいじめは許容されてはならないと教えるべきである。いじめられ、排除される子どもがいたら、その子たちの為に立ち上がり、保護の手を差し伸ばす社会正義感を全員にたたき込まなければならない。隠蔽や不作為を許さないという文化を作り上げなければならない。そういう意味で、お母さん方、先生方の特別な努力が必要である。皆で慈しみあってこそ平和な社会が生まれ、人々は幸福になれるのである。職場でのいじめはパワーハラスメントやセクハラ対策をしっかりととり、個人の人権を擁護する努力が必要である。同時に、各人がそれぞれの独立した意見を持ち、それぞれの行動規範を持っていることを認識し、自分の意見や価値観を押し付けないように留意しなければならない。違いを認め、それを受け入れるのがいじめをなくす唯一の方法である。
いのちを大切にし、お互いに慈しみ合い、万人が平和に暮らして行く為には、日本中の人が自分たちのグループの利益のみを守るのではなく、全員の為に一肌脱ぐという覚悟と、「弱きを助け、強きをくじく」という義侠心が必要である。

どうであろう、原発の問題も含め、私たちは「いのち」大切にし、お互いに思いやりをかけ、助け合うことが出来るようになれるのだろうか?それぞれ自分の心に問いかける必要があるのではなかろうか?

2012年7月10日火曜日

いのち 4

現在ほど地球上の全生命が脅かされている時代はないのではなかろうか?天災(地震、津波、台風など)、人災(火災、殺人、戦争、原発事故、交通事故など)、異常気象(干ばつ、水害、土砂くずれ、竜巻など)が毎日のニュースをにぎわせ、実に多数の人命が失われている。そしてこのような状況が私たちの「いのち」に対する感覚を大変に麻痺させているのではなかろうか?加えて、私たち市民も命を大切にしているかと問われれば「当り前よ」という返事が返ってくるが、実生活においては、全て「あるがまま」で、病気療養中の人たちを除いて、特別にいのちを大切にしているという兆しは余り見えてこない。世の中のお母さん方は当然家族の健康に留意するが、それも経済的な条件によって左右されているのではなかろうか。つまり、いのちを育むのは毎日頂く食事であるが、日頃食糧を買うに際して、「少しでも安いものを」という傾向があるようにみられる。食糧を購入する場合の判断基準が「これが自分の命を育んでくれる」というより、比較してどちらが安いとか、多いかということになりがちではなかろうか?確かにエンゲル係数は家計の中で大きな比率を占めるので主婦としては最も留意することのひとつだろう。でも、それで良いのだろうか?


スーパーやデパートなどで売られている食品は見た目にもきれいで、食べても口当たりが良く、しばしば安価である。身体や健康に良いと言われる食品は概して値段が高く、見た目もそれほどでもない。ただ味は本物であり、工場で作られたものや、近代農法で大量生産された食品は足元にも及ばない。多忙な現代人が面倒臭いと思うことは、健康に良い食品は自分で時間をかけて料理をする必要があるということだ。従って忙しい人は、自分の健康を気にするよりは、スーパーやコンビニで販売している食品に依存するということになりがちだ。

いのちを育み、体にとって有益な食品とは、一口に言って、農薬や化学肥料を使わずに作られた野菜類、汚染されていない動物性の食品、食品添加物を含まない加工食品などであろう。まあ昨今では稀有の食品とも言える。でも、このような食品は探せば必ず見つかる。有機農法による農産物を売り物にしている店、自然食品店などを訪ね歩けば必ず見つかる。

命を育み、健康を守るために私たちが心得なければならないのは、そのための知識を仕入れ、それを実行するということである。いくら忙しくても、時間を割こう、実行しよう。実行すれば確信が持てるようになる。医者のいうことやテレビの宣伝を鵜呑みにしていたら命はいくつあっても足りるものではない。

2012年6月23日土曜日

いのち 3



 6月8日に野田首相は「国民の生活を守るために」原発の再稼働が必要であると発表した。そして、それは夏季に限定されず、中長期的に原発が維持されると明言した。その理由として再稼働が「国民生活を守る」上に必要であり、大飯原発の再稼働がないと「突発的な停電により病院などで生命の危険にさらされる人が出る」可能性を挙げ、そして、「福島を襲ったような地震、津波が起こっても、事故を防止できる対策と体制は整っている」と述べた。

 私は首相の論理、結論を素直に受け入れるのには大きな抵抗を感ずる。一つには「想定できる」事故に対する体制が整ったと言っているが、事故とは全て「想定外」ではなかろうか?国民生活を守ると言っているが、国民、特に福島県に住む子どもたちの「いのち」そのものに対する放射能対策は見えてこない。福島原発の事故から国民が学んだものは、事故が起こった場合の関係者たちの自己防衛本能が国民にたいする配慮をあと回しにしてしまうという傾向であった。首相の発表に見えるものは、現在の経済活動を維持するという決意であって、必要なエネルギーは主として原子力に頼るという主張である。原発の廃棄物をどう処理するのかとか、原子力発電の廃絶、安全な再生可能なエネルギーに転換するというような話は示されていない。これでは恰も現存する設備に頼って行こう、新しい安全な投資はしないということで、「すべて今まで通り」に他ならない。本当に国民の命や生活が心配なら、何故原子力廃棄物やCO2の心配をしなくても済む地熱発電や太陽熱発電、風力発電を本気になって推進しないのだろう?国民は節電をしてこの夏を乗り切る覚悟は出来ているのだが、政府は最も安易な方法でこの夏を迎え、国民の持つ真の心配には何ら応えないという態度である。

 現在から将来にわたって国民の健康と生命を脅かす「放射能」の脅威にどう対処するのだろうか?政治家には、その場しのぎではなく、百年の大計を持ち、国民と世界の将来のために長期的な視野に基づいて国を治めてもらいたいものである。政治家が「政治生命を賭けて」何かを推進すると言うのは簡単である。

 広島、長崎、福島と三度放射能を浴びた国民が何を考え、何を欲しているのか本当に分かっているのだろうか?国民投票を挙行して国民一人ひとりが何を欲しているのか政府は明確にすべきである。国民全員が同意出来る方法と政策を打ち出し、安全な、平和な社会を築くのが立派な政治家であろう。

2012年5月29日火曜日

生きる 1

 5月13日は「母の日」である。世の中に「母」の子に注ぐ愛情、その代償を求めない愛情ほど大きなものはあるだろうか?人の持つ愛情には様々なものがある。人類愛、気のどくな人たちに対する思いやり、男女間の愛などと世の中には様々な形の「愛」がある。それぞれの愛の深さというか高さというものには、個人差があるが、母親の自分の子どもに対する愛は比較にならないほど深いものがあるのではなかろうか?


 母親の子どもたちへ注ぐ愛情、思いやり、慈しみといったものが世の中に満ち満ちていれば、世の中は和やかであろう。反面、この母の愛が十分に行き渡らないような条件が増えてくると社会は住みにくくなり、人の命も軽く扱われるようになるのではなかろうか?実際今の殺伐とした世の中を観察すればこのような見方が正しいのではなかろうかという気がしてくる。日本の学校教育のあり方、グローバル経済の非人間性、政治家に良く見られる自己中心的な人々や集団の増殖、女性や弱者に対する暴力や不平等、などといったものが環境破壊を引き起こし、人の命を軽んずる風潮を作り出し、世界各地で悲劇を撒き散らしている。そして、人々はそれらを現実として受け入れ、防御態勢を整えている。そこに欠けているものは愛であり、慈しみであり、思いやりである。

 世界を平和なものにしたいと思うのなら、先ず我々は母親の愛にこたえなければならない。母親に対して感謝の念を持とう、その思いを口に出そう、そして周りの人々に優しくしよう。「いのち」を大切にしよう。何にも増して必要なのは、女性に対する偏見、不平等、不公平を社会から除去する為の努力をすることだ。世界中の女性たち、特に、途上国で苦吟している女性たちや母親たちに思いやりをかけ、救いの手を伸ばそう。途上国の母親たちに貴女の愛を支援という形で表わそう。それが貴女の子どもたちの時代を平和にする礎となるのだから。

2012年3月12日月曜日

3月8日とは何の日でしょう?

毎年3月8日は国連の定めている「国際女性の日」です。国際女性といっても、これは国際的に活躍している女性たちを称えるために設けられた日ではありません。世界中の女性が例外なく受けている様々な不当な処遇や差別を考慮して、少しでも、女性たちが人間として持って生まれた人権や人格・尊厳が尊重されるように、また、少しでも健康に過ごせるようにお互いに思いやりをかけ、最大の努力を持って助け合いましょうと問いかける日であります。


世界の女性は三つのグループに大別出来ると思います。第一のグループは、貧困や因習の為に、極端に惨めな立場に置かれている女性たち。学校に行かせてもらえない、読み書きが出来ず、人との意思疎通もままならない、家庭内でも地域社会でも発言権がなく、いつでも無視されている、男性たちからはセックスの対象や子どもをつくるための道具としか扱われていない、お産をするに当たってもお医者さんはおろかお産婆さんなどにも無縁である、というような運命におかれ、社会の片隅で声をあげることも出来ず涙にくれている人たちです。これらの殆どの女性は途上国に住んでいます。

第二のグループは、第一のグループの女性たちのために日夜奔走する女性たち。途上国で、又、途上国に出かけて行って、自分のことはさておいて、貧困女性の為に一肌も二肌もぬぎ、教育、保健、地位向上などの分野で活躍している人たちです。この人たちは概して人類愛に満ち、資金は十分にないけれど「気の毒な女性たち」の為に何かしなければという使命感にあふれている人たちです。このグループに属している人たちはごく少数です。

第三のグループは世界の殆どの女性たちです。愛情濃やかで自分の子どもや家族の幸福のために努力を惜しまない人たち。まず、人間としてまともな生活をエンジョイしています。教育も受け、経済的にも余り心配ありません。気の毒な人たちの話を聞けば涙を流し、請われれば支援の手を伸ばす人たちです。ただ、このグル-プの人たちには第二のグループの女性たちの持っている「使命感」は期待できません。なぜならば、女性は命を与え、育むことが運命づけられていますから、どうしても視線は自分の子どもや家族に向いてしまい勝ちだからです。

世界人口の半分は女性です。今「世界が荒れている、環境は改善されない、食糧が不足してきている、エネルギー不足が心配だ、世界人口は70億人を超えた」などと言われています。実際、世界を見ていると、グローバル経済のもと、生活は表面上向上しているように見えるかも知れませんが、一皮むけば、様々な矛盾が見えてきます。特に目立つのが、女性に対する差別です。これが、現在の世界の問題と矛盾の原点ではないでしょうか?女性が政治、経済、社会各方面で活躍できない、いや、差別されていることが一番の問題です。世界が平和であり、人々が安心して生活出来る為には、女性の声が的確に政治、経済、社会に反映されなければなりません。女性たちが発言しないと世界は現状維持です。いや、少しずつ後退して行くでしょう。どうしたら、世界は少しでも平和に、男女平等に向かうのでしょうか?どうしたら、途上国の貧困女性がお産で死なずに済めるでしょうか?少しでも多くの女性たちが政治、経済、社会の指導者になるためにはどうしたら良いのでしょうか?是非皆さんのお知恵を拝借したいと思います。

さて、貴女は上記3グループのどれに属するのでしょうか?私たち2050は、世界が平和であるためには女性が中心になるべきだ、そのための努力をしようという大原則を打ち立てました。数多い手段の中から「まずこれを!」ということで、途上国の貧困家庭の子女が等しく教育を受けられるよう「ニコニコ奨学基金」を設立し、南西アジア5カ国で、僅かながら、奨学金を付与して教育の機会を与える努力をしてきました。会員の方々の浄財や寄付によって毎年100名近くの女性たちが通学可能となり、もうすでに相当数の女性たちが学校を卒業して実社会で活躍を始め、気の毒な女性たちの為に救いの手を差し伸ばしています。

ただ問題は、最近、特に、昨年の東日本大震災によって、人々の心が東北地方にそそがれ、日本人の思いやりが途上国の女性に余り届かなくなってしまったことです。たとえば、いままで2050の大口のスポンサーであったJX日鉱日石金属株式会社が「ニコニコ奨学基金」に対する支援を今年限りで打ち切ると通告してきました。そのため、毎年250万円ほど途上国女性の支援をしているこのニコニコ奨学金がたちまち干上がるという状態に直面しています。これから奨学金募金の為のキャンペーンを展開していくつもりですが、いつまで継続出来るか心もとない始末です。

これが現在の、また、これからの日本の国際協力のあり方を示すものであれば、世界の大多数の女性の運命は非常に暗いものと言えましょう。世界平和も男女平等も実現不可能でしょう。ただ私たちも絶望しているわけにはいきませんので、ここは日本の女性たちの善意と思いやりによって、何とか途上国で苦吟している女性たちの為に何とかしなければという気になっています。どうぞ、皆様のお知恵を拝借して一緒に世界を少しでも明るいものに致しましょう。どうぞ、途上国貧困子女を救済するシンボルである「ニコニコ奨学基金」が継続できるよう皆さまの温かいご支援をお願いいたします。



2012年2月10日金曜日

地熱発電


地熱発電                         北谷勝秀
 ウイキペディアによれば、「地熱発電は石油などの化石燃料を使わないクリーンエネルギーであり、日本では約5%しか自給できない天然ガスにも匹敵する貴重なエネルギーを国産で採掘できることから、原油価格やウラン等の核燃料価格の変動リスクがない国産エネルギーとして、見直しが進められている」そうである。更に、日本では「地熱発電が積極的に推進されていない」と述べている。その理由として「国や地元行政からの支援が火力や原子力と比べて乏しいこと、地域住民の反対や法律上の規制があるため」だとし、「発電所の候補地の多くが国立公園に指定されているが、1972年(昭和47年)に当時の通商産業省環境省の間で交わされた[既設の発電所を除き、国立公園内に新たな地熱発電所を建設しない]ことを約する覚書により、事実上発電所の新設が認められていない」と述べている。また、「国立公園以外の候補地も、近くに温泉観光地が存在している場所が多く、温泉の源泉への影響や景観を損なう発電所建設は地元の反対が根強い。例えば、群馬県嬬恋村では2008年(平成20年)に地熱発電の計画が浮上したが、その予定地が草津温泉の源泉から数kmしか離れていないため、温泉に影響が出る可能性が必ずしも排除できないとして草津町が反対を表明したが、科学的根拠はしめされなかった。草津温泉では、地熱発電と温泉との因果関係の有無を検証するための地下ボーリング調査等を行うことにも反対している」と記されている。
 どうだろう、この文章を読んで、皆さんはどうお考えだろうか?既得権は擁護されるべきだ、いや、古い時代遅れの法律や役所間の申し合わせで、新しく発生してきた問題は対処出来ない、とお考えだろうか?それとも、現在私たちに突きつけられている問題は「予想外」であったので、全く新しい取組みが必要だとお考えだろうか?実際には政府はこの「地熱」の問題に現遅まきながら取り組み始めたようである。ただ問題は、原子力発電(福島原発の大事故を受けて)の将来を、そして将来のエネルギーの供給をどう確保するのか、若し原子力発電を継続しないのなら代わりはどうするのか、太陽光、風力、地熱かというような総合的な視点や意見が前面に出てこず、今耳にするのは、原子力発電所の保安は今や心配ない、原発は日本の産業と将来の為に不可欠だというような議論に基づく推進論だ。
 原発に関して言えば、いろいろな政府の専門部会に「専門家」が出席して、専門的な意見を述べている。だが、これらの意見の多くは原発の継続、推進を大前提としている。反対意見の裏には、今更、新しい技術は取り入れても、実用に至るのはお金と時間がとても多く必要だ、だから現状維持だというような考えが見え隠れする。
 昨年三月に、日本は未曾有の大惨事を経験した。今までの常識や「想定」が当てはまらないようなスケールのものである。これからの日本には東関東大震災程度のものはもう起こらないだろうか?また想定外の事が起こる可能性はあるのか?
 専門家は狭い専門分野の知識や見識には優れている。ただ、彼らの苦手は総合的な、遠い将来を見据えたビジョンを持ちにくいということである。であるから、国民の生命や健康に大きな影響を与えるような問題は、一分野の専門家たちに任せず、さまざまな分野を横断した見識の高い人たちにお集まり願って人類の将来という見地から十分な議論を尽くしてほしい。政治家たちが立ちあがって、自分たちのグループの立場を声高に叫ぶのではなく、政党やグループなどの垣根を越えて、日本という国、その制度、日本人の為の真の福祉と安寧などを計ってほしい。国民が欲しているのは消費税がどうのこうの、2-3年前のマニフェストがこう言っているじゃないか、などの議論ではない。今必要なのは、全く新しい事態に遭遇して、日本人が一丸となって対処できる心構えであり、新しい「生き方」である。
頼むよ、政治家の皆さま。
でも、頼りに出来るのかな?やはり、国民一人ひとりが未来志向になることが必要なのだ。
chinet 

2012年2月1日水曜日

文化について



私たちがいろいろな問題について議論をしたり、対策を練ったりする場合、「文化」というものが大きな問題として立ちはだかることがままある。特にそれがいろいろな国の人びとのための国連あたりでの議論であっても、政府代表の中には自説を曲げず、自国の国益追求に夢中になっているケースを良く見かける。世界の為、環境の為、女性の為というよりは、目先の問題を自分たちが慣れ親しんでいる考え方で判断をし、たとえそれが建設的なものであっても自説にそぐわない意見を切り捨てることが多い。そして、そういう場合「伝統」であるとか「社会秩序」などという大義名分で自分たちの主張を正当化している。 そもそも「文化」とはある地方に住む人たちやグループが自分たちの間で、自分たちに都合のよい約束事を作り上げて、それを守るという行動である。そしてその約束事を守らない人々を反社会的だとして村八分にしてしまうことも良く見かける。これが一方では人間に保守性を与え、他方では違う意見に対して排他性を持たせる。 昔のようにそれぞれの地方や部落がお互いに交流せず、ひっそりと人々が暮らしている場合、それほど問題は目立たない。ところが、最近の様に地球規模問題がわれわれの生活を脅かし、立場が違う人種、性、生活様式、文化が世界的に解決を求めてくると、我々は戸惑い、問題の解決を先延ばしにしてしまう。現代の世界は目まぐるしく変化し、新しい問題を生み出し、新しい解決法を求めてくる。今までの常識や文化では対応できない。今我々に求められているのは、我々が安住してきた文化に基づく判断や行動ではなく、全く新しい考え方、行動であり、生活様式であろう。 女性問題を取り上げてみよう。正直言って、女性は生まれる前から世界中で差別されている。非常に多くの国や人種によっては、女性は男性に比べて不当な不利益を被っている ― 女児の妊娠中絶、就学や衛生面での差別、女性の性器切除、社会における発言権不在や差別など数えだすときりがない。これらの問題解決に当たって問題となるのが男子の考えかたと行動、すなわち「文化」である。女性はかくあるべきだ、という既成概念が非常に多くの男性たちを支配している。また多くの女性がそのような伝統的な文化を当然として受け入れている。このような状態が現代世界の矛盾と問題を増幅しているのだ。 現代の問題はわたしたちの発想や行動規範の根本的な転換を求めているのだ。私たちが作りだした問題は今や伝統的な文化や考え方では制御できなくなっている。私たちはその解決法をいわゆる「専門家」に任せて、官僚や企業家が問題解決計るべきだという思考形式を改めなければならない。言い換えれば、現在の地球規模問題はわれわれが作りだしたものであるので、それらを解決するのには、我々一人ひとりが真剣になって問題の本質にせまり、思い切った斬新な行動を起こさなければならない。一般国民はもっと勉強して問題の本質にせまらなければならない、そして一歩も二歩も踏み出して、長い目で将来を考え、自分たちの子や孫が将来どのような生活を強いられるのかという観点から解決策を打ち出して行かなければならない。目先の都合や、解決するのに一寸お金がかかりすぎる、面倒くさいなどという問題はいったん脇に置いて、長期的な解決策を打ち出して行かなければならない。福島原発の大事故の後を受けて、日本で今後原発を維持推進すべきか否かなどの議論は、国民全部が真剣になって考え、将来を見据えたものでなければならない。もう一つ気になるものに、女系宮家の創設に関する議論がある。そこで声高に語られる「伝統」だから女系宮家創設に反対だとか、かくあるべきだなどという主張は願い下げをお願いしたいものである。 世の中の多くのご主人たちは様々な企業、グループ、団体に属していて、それらの「文化」にがんじがらめになっている。つまり、自分の個人的な意見を中々主張できない。そのため、日本では物事がすんなりと決まらない、進行しないという現象が良くみられる。社会正義や常識的な議論が文化に基づく考え方によっていとも簡単に捨て去られてしまう。そして、後に残るのは庶民の感ずる「やるせなさ」であり、無力感である。こういう状態を解決しないと、この国はずるずると国際的な指導力も尊敬も失ってしまう。そしてその現象はすでに明白になりつつある。 日本がかっての様に自信を持って世界の為に、人類の将来の為に活躍しなければ世界平和は永久に訪れない。日本が立ち上らなければ私たちの子や孫の世界は希望のないものでなってしまう。そうならない為には、男性たちの「文化」に振り回されずに、女性, 母親たちの意見が尊重されなければならない。自分の子どもたちが平安であって欲しいと願うのはどの母親にとっても切実な願いである。そういう世界を実現させよう。女性、お母さん一人ひとりに少しでもそういう建設的な関与を願いたいものである。

2012年1月18日水曜日

2012年の初夢



悪夢の2011年が過ぎ、新しい年がまわってきました。皆さんはどのような「初夢」をご覧になりましたか?私の場合は、目覚めた時に、「ああ楽しい夢だったな、正夢であって欲しい」と思ったことは覚えていますが、数日過ぎて、その夢について書こうと持ったときには、もうどんな内容の夢だったかは忘れてしまいました。
初夢も宝くじを買って「当たったらあれを買おう、これもしよう」と一時的な夢にふけるのに似ているようです。一時的にせよ、それが本人の気持ちを少しでも高揚させ、「どうせ、当たりっこないけど、万一あたったら自分の夢の実現が実現できるよな」と思うだけでも使ったお金や時間の価値はあるのではないでしょうか?私の場合は「三億円当たれば、それで途上国女性の為の奨学金の資金が出来る。そしたら引退しよう」なんて考えています。初夢もお正月に今年こそはあれをしよう、これも成し遂げようと考えていることの個人的な願望の現れであるのかも知れません。
閑話休題。人はみんな夢をもっています。自己実現であったり、仕事上の大目的であったり様々です。大切なことは、それぞれが持っている夢が少しずつでも実現することです。毎日の努力が要求されます。そして、その夢が自分だけの為ではなく、他人さま(ひとさま)の為であったり、気の毒な人、恵まれない人、途上国で貧しさの余り苦吟している人々の為であったりした場合、その夢は単なる夢に終わらず使命感になります。
一般の市民の場合、我々の持っている夢はたいてい内向きで、自分の事や家族のことに向きます。これは当然なことで、私たちは先ず自分たちの生活や考え方を第一の目標にします。自分たちの生活が確立できてこそ他人さまのことが考えられますから、自らの生活を確立する必要があります。その後、思いやりとか分かち合いという精神構造や文化が生まれてきます。幸い日本にはそのような文化に恵まれています。昨年三月以来、日本中の人々がとった行動はその典型的なもので、世界の人々から賞讃されています。でも、私たちが忘れてはならないのは、日本以外の様々な土地で非常に多くの人々が異常気象の犠牲になっていることです。これらの人々は例外なく貧しく、自助努力の知識も術も持ち合わせません。彼らは私たちの差し伸べる手を一日千秋の思いで待っています。
2012年は「思いやり」と「分かち合い」の年にしませんか?自分の出来る範囲内で、助けあうのです。地球規模での助け合いが徐々にでも広がっていけば、世界平和は夢ではなくなります。今までは余り発言をせず、行動も控えめであった主婦、女性たち、お母さんたちが発言をし、行動を起こす年が2012年です。女性たちの声が政治や社会に反映されれば、世界は平和に向かいます。子どもたちの将来も安全なものになります。その為には、私たちの将来を決定するようなことは、今までのように、男性、政治家、企業家、役人に任せっぱなしではいけません。女性の声が尊重されるべきです。
地球の総人口はついに70億人に達しました。これから世界中の人々の為にどうして環境を保全するのか、食糧を確保するのか、水はあるのか、世界的な感染症に対処するのかなど大きな問題がわが子、わが孫の前に立ちはだかっています。
資源の乏しい日本はこれからこのような大問題に振り回されるでしょう。2012年は我々日本人が何を考え、何をするかによって、世界が危機的な状態に向かうのか、それとも、希望と夢の持てるものになるのかの分かれ道です。
どうぞ、2012年は皆さまの夢が実現するものであることを祈ります。