「人生とは遠き山に登るが如し」と昔の人は言った。目的地に到達するまでには一歩々々歩み、様々な経験を積まねばならない。楽しいこともある、苦しいこともある。絶望することもあるだろう。今の世の中では、ともすると、良いことなんて一つもない、私は不運だ、俺は駄目なんだ、世界の終焉も近い、というような否定的な考え方に取りつかれてしまいがちになる。
何なのだろう、人生とは? それは毎日の出来事を個人的に経験することに他ならない。その毎日の出来事を肯定的に捉えるのか、否定的に捉えるのか、または、あるがままに受け止めるのか、それとも、自分の思う通りにさせようかと思うことによって、個人の人生に対する反応は随分と違ってくる。例えば、個人的には耐えきれないと思うような経験でも、それは「将来への教訓」と受け止め、その教訓を生かし、将来へのジャンプ台と解釈すれば、そう悲しむこともないだろう。更に、失恋だって、本人がもうこの世の終わりだと思い込むだけで、まさに執着に振り回されているに過ぎないのではなかろうか。神様から「あなたにはもっと素晴らしい人が別にいるよ」とささやかれているのかもしれない。
私達は不完全な世の中に、不完全な人たちに取り囲まれて生活している。そのため、私たちが経験することは殆どが「傷もの」である。この世の中には完全無欠のものも完璧な人間も存在しない。だから、何を経験しようと、焦れたり、怒ったり、がっかりしないことが肝要だ。すべてをあるがままに受け止め、受け入れよう。要は、私たちが、自分の規範に則って人間は、「かくあるべきだ」と決めつけず、他人を裁かず、みんな違う価値観や行動規範を持ち、自分や自分たちの利益を守っているのだと理解すればよいということだ。他の人はみんな自分以外の人を裁き、決めつけていると理解すればよいのだ。自分の経験を教訓にして、それをバネにすれば良いのだ。そうすると飄然と生きることができるようになる。
いやな経験でも、それは瞬時に過ぎ去っていく。それに囚われないことだ。囚われると、目先の問題に振り回され、自己否定をし、ウツになりがちだ。世の中に永遠に続くものはない。楽しいこと、いやと思われること、すべてが瞬時に起こり過ぎ去っていく。そういう精神的、肉体的な経験がすべて瞬間的であり、それらを経験しているのだと認識すればよいのだ。それ故、人生というのは瞬間的な経験の連続であり、その経験をどう活かしていくかにかかっていると言えよう。あなたの人生とはあなたが経験するものをどういう風に受け止め、それをどういう風に自分の人生の夢を実現するために応用するかにかかっている。
自分の利益実現のみに専心し、他の人の考え方や価値観を排除する生き方と、他の人々との共存共栄を考え、周りのすべてのものや生物に思いやりをかける生き方の間には大きな差がある。更に自分は「生かされている」と認識し、すべてに感謝し、謙虚に生きようとすれば、そこには、ウツが入り込む隙間はない。結局は、人生とはあなたがどのような解釈と判断を下し、いかにして自分の経験から得た教訓を「自分の人生の目的」達成のために使うかにかかっているといえよう。
さあ、あなたはどのような目的と生き方を選ぶのかな?
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