2014年5月17日土曜日

幸せを感ずる


 幸せってどんな状態のことを指すのだろう?それは人間一人ひとりで考え方や受取り方が違うので一概には言えないのかと思う。そして、それは誰が決めるのだろう?自分でそう決めるのか、それとも他人がそう言ってくれるのか?その反対は、「自分は不幸だ、幸せではない」と思うのはどういう時だろう?色々の要素が重なり、先ず、「だれも私のことを大切にしてくれない」とか、「どうして私は何をしてもうまくやれないのだろう?」などと自分を責めることや、「私は生まれつき不幸だ!」と決めてかかることからはじまるのではなかろうか?

 客観的に言って、幸せであるための第一の条件とは、先ず、健康であることだろう。病気ではなく、立ち居振る舞いに何不自由を感じない場合は幸せであると言えるだろう。そうなると、自分の生活習慣(ライフスタイル)・食事が、幸せを感ずる上での大きな課題となろう。脂肪や添加物を体内にため込まず、血液はさらさらで、偏食をせず、アルコールや嗜好品に溺れることなく、バランスの良い食事で体力を維持し、肉体的に活発であることが大切だ。そういう意味でスポーツの重要さも言うまでもないだろう。

自分が幸せか不幸かと決める上で、大きな要素を占めるのは、自分のおかれた生活環境が安泰であるかどうかということだ。生命・財産が脅かされることがあってはならないのだ。だれにも脅かされることも、だまされることがないということが大前提となる。今みたいに、福島原発事故の報告が曖昧であったり、行政が口先だけであったり、さらに、異常気象、紛争、犯罪などに遭遇しないで生命をおびやかされないということが前提条件となる。極東4か国(日本、中国、北朝鮮、韓国)の発する最近の声明やつくり出す雰囲気は少しもそういう意味で建設的なものではない。高圧的に物言うことや自分だけが良くて相手が悪いと一方的に決めつけるのではなく、共存共栄に基づく声明を発してもらいたいものだ。さもないと、現在この世のあり方は人に幸せを感じさせるものではないと言えるのかもしれない。庶民にとって、もう一つ大切なのは、自分や子どもたちの将来に対する心配がないということだ。

次に来るのが、本人のもって生まれた性格とか考え方である。落ち込んでいない、前向きだ。生きるのが楽しい。または、「生きるのがつらい」とか「私は何をやってもうまく行かない」などと結論づけることが、幸か不幸を決めるのだ。思い込みや仕事上のストレスなどはその大きな要素であろう。もって生まれた性格や、親のしつけなどが本人の考え方に大きな影響を与え、間違った結論を導くことが往々にしてある。更に、「何をやってもうまく行かない」という結論は、前世から引き継いだ「業」と言おうか、自分本位の生き方をしている人に当てはまるもので、本人が何かしらの理由で自分の至らなさに気付いたり、世の中には自分のものとは全く違う解釈もあると気づいたりすれば氷解する。そうすると、生き方が変わる。前向きの生き方になる。謙虚になる。もう一つ重要なことは、本人がどのような生き方や考え方をし勝ちであるかということ。凡人はとかくすると世の中はかくあるべきだとか、あの人は怪しからんとか決めつける。そして、自分自身の思い通りに行かないといらだったり、嘆いたりで、世界を小さくしてしまうものだ。反対に、「世の中なんて自分の思い通りにはいかないのさ、他人は皆違う考えをもって自分勝手に生きているのさ」と割りきっていれば生きることがストレスにはならない。

生きていくうえで、いじめや差別を受けることもなく、皆から好かれていると自覚できれば、その人はそれだけで幸せであろう。でも、他人から好かれる為には、ご本人の相当な日常の努力が必要である。普段から人一倍努力して人脈を築き、「あの人は頼りになる人だ」と印象づけることが必要だ。周りの人たちに気遣いをし、思いやりをかけ、仕事の上でも頼れる人にならなければなるまい。言葉遣いから、他人に接する態度も常に注意をしている必要がある。そうしてこそ、皆から好かれ、幸せな人になれるのだ。

幸せの一条件として、経済問題がある。特に金持ちでなくても、人は幸せになれる。その日、その日の生活が特に不自由でなく、精神的に満ち足りたものであれば、その人はにこにこと生活できる。人として最低の生活が出来れば、それ以上のお金は必要ないのだ。

以上、色々な条件を列挙したが、中でも一番大切なものは、自分の人生で達成したい目標はこれだとはっきり自覚するもの持つことだろう。そのようなものがあれば、その人はその目標に向かって活き活きと生活できるのだ。

 どのような生活をしていようと、毎日を、瞬間を一生懸命に生き、世の中には「完全な人などいない。人は皆違うんだ」と達観し、自分と違う意見をあたまから排除したり、駄目だと決めつけたりしなければ、心は案外と平静を保ってくれると気づく。自分に激しい言葉をぶつける人や意地悪をする人に遭遇しても、「あゝこの人は自分のフラストレーションを私にぶつけているのだな」と思えば恕してあげられる。世の中をあるがままに受け入れ、更に、一歩進んで、「私は生かされているのだ、感謝しなければ」という心持ちになれば、その人は幸せを感ずるだろう。

 このように考えてくると、必要なことは、「すべてほどほどに」という心がけを持たなければならぬと気づくだろう。「俺が、俺が」と我を張り、自己主張を貫こうとすると、そこには必然的に緊張感が生じ、摩擦が起こる。理屈をこねて、相手を折伏しようとすると、そこには不幸が待ちかまえていると知るべきだ。相手の意見をよく聞き、自分の意見や立場を説明すれば、解決策は現れる。その際あなたが自分の言葉使いに気を付け、建設的・好意的であれば相手はあなたを尊敬するであろう。あなたが導き出した結論や結果が優れていれば、あなたは必然的に責任のある地位に付くであろう。大局的に、かつ、周りの人たちの貢献も認められるように計ればあなたは立派なリーダーとなる。あなたも、周りの人も、皆が幸せを感ずるようになる。

幸せとは、畢竟、自分が毎日の積み上げでつくり出す人生をいかに謙虚に、感謝して過ごすということに他ならない。

2014年5月5日月曜日

20年たった

 51日付けの世界人口ブレティン148号に記載してあるように、今年は世界人口問題にとって、わが2050にとっても、20年の節目を迎える大切な年である。
 2050は過去20年間、皆様の支持と励ましによってそれなりの成果をあげてくることができた。でも、諸般の情勢に押されて、その運営は徐々に難しさを加えてきている。今年が山で、ここで起死回生の手段を講じないと悔いを千載まで残すことになるであろうと感じている。
 世界の人口問題も、カイロで開催された国際人口開発会議から20年。国連人口開発委員会が4月7日から11日まで開催され、カイロで採択された行動計画がどの程度成功裏に実施されたかが評価された。詳しくは人口ブレティン148号をご覧いただくとして、一口で言えば、国際社会の努力は“まずまず”というところで、初等教育の普及と貧困削減では成果を上げ、他の分野、つまり、妊産婦死亡率や出生率の低下などでもある程度の成功を収めていると言う評価であった。ただ問題は、ジェンダー平等、若者対策、高齢者対策、リプロダクティブヘルスの普及などではまだまだ努力が必要であると指摘をされていることである。
 これらの問題解決に向けて、国際社会にはなお一層の努力が求められているが、依然としてリプロダクティブヘルスや女性に対する偏見に固執する発言があることを鑑みると、残された課題は大きいとしか言いようがないであろう。これを、2013年の世界人口白書で数字を少し検証してみると次のようになる:
                            平均寿命   妊産婦死亡率   避妊実行率    家族計画の
            (出生10万対)  近代的方法 (%  未充足ニーズ%

日本      80  87      5       44        0 
世界      68  72     210       57        12
サハラ以南の
アフリカ    55  57     500       21        25

 このような数字を見ると、いかに日本人は恵まれているか、反面、多くの人たちが、特に女性が、社会の片隅に置き去られているかがはっきりする。私たちが少しその気になって支援すれば、彼女たちの運命は好転するのだ。人並みの生活が送れるようになるのだ。

 国連人口開発委員会において阿部俊子衆議院議員は日本政府を代表して、世界一高い健康寿命の国を実現した経験を他の国と共有する用意があると発言した。ぜひ日本政府が今後積極的に女性の地位向上やリプロダクティブヘルスの普及のために努力をしてほしいし、私たちも政府の国際社会におけるこうした活動を見守っていかなければならない。心から願うのは、日本政府が世界の貧しい人たちのために、女性の命が大切にされるような世界を実現するために、国際社会で指導性を発揮し、ODAを増額して、日本の経験や教訓を途上国と共有して、真に平和な世界を築いて頂くことである。