2012年7月19日木曜日

いのち 5

 現代人は思い込みや偏った生き方をして寿命を縮めているとしか思えない。どんどんと飛び込んでくるマスコミの一方的な情報や「科学的で分析的」な医学上の情報に基づいて、身体が処理しきれないほどの量の食品添加物や化学薬品を、更に、自分が食べたいと思う食品を際限なく取り入れている。つまり、飽食であり、美食の極みを尽くしている。加えて、アルコールやジュース類の摂取量も大変なものである。タバコを吸う人もかなりいる。


 言い換えると、世の中の人は大部分が好き勝手な食習慣とストレスの多い生活習慣を取り入れ、心の安らぎを得ることが少ない生活を強いられている。そして、それらから逃れる術を知らないか、知ろうとしないように見受ける。そんな生活を15年も続ければ肥満、成人病は避けられない。つまり、好き勝手な生活をして、寿命を縮めているとしか言いようがない。

昔から、年をとっても健康で活躍している人たちを見ていると、例外なく、素食、少食であり、咀嚼も一口50~70回と、良く噛んで、時間をかけて食事をしている。お酒をたしなむ人もいるが、それも、酔っぱらうほどは飲まず、ほどほどである。このような人たちは例外なく人生においてやり遂げる使命を持ち、他の人の見解や考えに常に寛大であり、思い込みや自己主張が少ないように見受けられる。他人を裁かず、思いやりをかけ、ニコニコとしている。そして、彼らの存在そのものが周りの人たちに大きな安らぎを与えている。

最近の報道で大きく取り上げられる問題に1)被災地からの瓦礫の受け入れ反対という声と、2)「いじめと自殺」という二つがある。これらの問題は島国、地域社会、「お家」などに根差した「文化」そのものであり、自分たちの利益だけは守り、不都合なことは排除し、隠蔽するという特性を持っている。つまり、「瓦礫」の場合は「自分たちの地域社会の利益を守ろう、他の地域の人々の苦痛などにかまっていられない」という自分本位な意思表示である。まさに「何をか言わんや」である。

他方、「いじめ」は、日本国中、時代や年齢に関係なく、ありとあらゆるグループで大昔から行われてきたことである。村八分がその良い例であり、日本国中で、学校でも、会社でも、どんなグループでも、それを観察することができる。誰でも友達から揶揄され、悪口を言われ、意地悪をされた経験を持っている。つまり、日本人は異分子を嫌い、2-3の人が音頭を取り、自分たちの生き方にそぐわない人たちを糾弾し、気に入らぬ人をいびる。積極的にいじめに参加しない人たちは「見て見ぬふりをして」問題を悪化させる。そして, いじめが如何に陰湿であるか、残酷なものであるかと知っているのにも関らず、誰も声をあげて止めさせようとはしない。そして、いじめに関して罪悪感を持ちあわせていない。政界を見ても、日常の生活でも、助け合うとかお互いに思いやりをかけるなどという精神構造は希薄である。皆、知らぬ顔をし、責任をとらされないように隠蔽し、自分を守ることのみに汲々としている。

有識者がテレビで様々な分析や解釈をし、文科省がどうの、教育委員会がどうの、学校や先生たちがどうあるべきかなどと意見を述べているが、これは学校や教育委員会だけに押し付ける問題ではなく、国民の一人ひとりが責任を感じて、問題を解決しなければならないことである。つまり、各家庭で、子どもの成長過程で、小中学校を通じて、意地悪やいじめは許容されてはならないと教えるべきである。いじめられ、排除される子どもがいたら、その子たちの為に立ち上がり、保護の手を差し伸ばす社会正義感を全員にたたき込まなければならない。隠蔽や不作為を許さないという文化を作り上げなければならない。そういう意味で、お母さん方、先生方の特別な努力が必要である。皆で慈しみあってこそ平和な社会が生まれ、人々は幸福になれるのである。職場でのいじめはパワーハラスメントやセクハラ対策をしっかりととり、個人の人権を擁護する努力が必要である。同時に、各人がそれぞれの独立した意見を持ち、それぞれの行動規範を持っていることを認識し、自分の意見や価値観を押し付けないように留意しなければならない。違いを認め、それを受け入れるのがいじめをなくす唯一の方法である。
いのちを大切にし、お互いに慈しみ合い、万人が平和に暮らして行く為には、日本中の人が自分たちのグループの利益のみを守るのではなく、全員の為に一肌脱ぐという覚悟と、「弱きを助け、強きをくじく」という義侠心が必要である。

どうであろう、原発の問題も含め、私たちは「いのち」大切にし、お互いに思いやりをかけ、助け合うことが出来るようになれるのだろうか?それぞれ自分の心に問いかける必要があるのではなかろうか?

2012年7月10日火曜日

いのち 4

現在ほど地球上の全生命が脅かされている時代はないのではなかろうか?天災(地震、津波、台風など)、人災(火災、殺人、戦争、原発事故、交通事故など)、異常気象(干ばつ、水害、土砂くずれ、竜巻など)が毎日のニュースをにぎわせ、実に多数の人命が失われている。そしてこのような状況が私たちの「いのち」に対する感覚を大変に麻痺させているのではなかろうか?加えて、私たち市民も命を大切にしているかと問われれば「当り前よ」という返事が返ってくるが、実生活においては、全て「あるがまま」で、病気療養中の人たちを除いて、特別にいのちを大切にしているという兆しは余り見えてこない。世の中のお母さん方は当然家族の健康に留意するが、それも経済的な条件によって左右されているのではなかろうか。つまり、いのちを育むのは毎日頂く食事であるが、日頃食糧を買うに際して、「少しでも安いものを」という傾向があるようにみられる。食糧を購入する場合の判断基準が「これが自分の命を育んでくれる」というより、比較してどちらが安いとか、多いかということになりがちではなかろうか?確かにエンゲル係数は家計の中で大きな比率を占めるので主婦としては最も留意することのひとつだろう。でも、それで良いのだろうか?


スーパーやデパートなどで売られている食品は見た目にもきれいで、食べても口当たりが良く、しばしば安価である。身体や健康に良いと言われる食品は概して値段が高く、見た目もそれほどでもない。ただ味は本物であり、工場で作られたものや、近代農法で大量生産された食品は足元にも及ばない。多忙な現代人が面倒臭いと思うことは、健康に良い食品は自分で時間をかけて料理をする必要があるということだ。従って忙しい人は、自分の健康を気にするよりは、スーパーやコンビニで販売している食品に依存するということになりがちだ。

いのちを育み、体にとって有益な食品とは、一口に言って、農薬や化学肥料を使わずに作られた野菜類、汚染されていない動物性の食品、食品添加物を含まない加工食品などであろう。まあ昨今では稀有の食品とも言える。でも、このような食品は探せば必ず見つかる。有機農法による農産物を売り物にしている店、自然食品店などを訪ね歩けば必ず見つかる。

命を育み、健康を守るために私たちが心得なければならないのは、そのための知識を仕入れ、それを実行するということである。いくら忙しくても、時間を割こう、実行しよう。実行すれば確信が持てるようになる。医者のいうことやテレビの宣伝を鵜呑みにしていたら命はいくつあっても足りるものではない。