2014年8月29日金曜日

8月15日を迎えて


第二次大戦が終わり、満69年を迎えた。その間色々なことが起こった。様々な経験を積んだ。驚くようなこと、つらいことも沢山あった。でも、今ふり返ってみれば、この国は昔に比べて豊になった。終戦時のあの荒廃ぶりを思い出せば夢のようである。

国民は、初めは「食うために」必死になって働いた。世界の状況に左右され、わが国の経済は相当振り回されたが、いつの間にか「世界二位」の経済だと言われていた。そして、今やそれが沈滞状態である。外交的には様々な強国の間で「けんつく」を喰らいながらでも、少しでも豊かにと政治家も国民も必死である。一方、我々の豊かになる為の努力の副産物として、我々は自然を破壊し、環境を大変に損なってきた。今や、人々は異常気象だ、大気汚染だ、大洪水だ、山崩れだと右往左往し、多数の生命や財産を失うようになっている。でも、誰もこの異常気象の原因を作ったのは自分だとは意識しない。同時に、一部の政治家たちは自国や同盟国を守るためには「集団的自衛権」を持たなければならないと張り切っている。だが、それに関する情報も議論も殆どなく、国民は一方通行の道をまた歩かされるのかと心配である。

振り返ってみると、今まで日本国民の大多数は「お上」の言うこと、会社の方針、上司や先輩の言うことに非常に従順で、敢えて自分の意見を持とうとはしなかったのではなかろうか?我々は示された目的を達成するのには必死で、自分の従事している仕事がどのような影響を社会に与えているのかについては比較的無関心であったような気がする。自分たちが行っている活動が50年先、100年先の子孫たちにどのような世界を残していくかについてもあまり考えない。要するに、我々には自分で考え、判断する、そして後に続く世代に対して責任を持つという姿勢が欠けているのだ。子育てに関しても、一般の親は、「勉強しろ、いい学校に入れるように」と尻を叩く、そして、一流企業や官公庁に就職して経済的な安定を目指せと叱咤激励だ。そだてられた子どもたちは目先の利益を追うお利口さんに育つ。そして、世に満ちるのは,「自己中」の人々だ。今、我々に必要なのは、国民が真剣に考えること、自分たちの将来、子どもたちの将来について議論をつくし、適切な決断を下すことではなかろうか?

集団的自衛権や憲法改変に関する動きでも、私たちは、第二次大戦による戦死者が212万人、空襲による死者が24万人(朝日新聞)だということを噛みしめる必要がある。この他に、広島、長崎の原爆、離島で死に追い詰められた人々、更には、日本が戦争を始めたために殺され、苦しめられたアジア諸国の人々は無数であることを肝に銘じなければなるまい。

世界には「永世中立国」を名乗る国が相当数ある。有名なのはスイス、オーストリア、コスタリカあたりだが、それぞれ、いろいろな事情を抱えながらもそれなりの努力をしている。彼らが目的とするのは「平和」だ。彼らが尽くすのは外交努力だ。一旦緩急あればすぐ銃を片手に飛び出そうというのとはちょっと違う。今の日本での(禄にない)議論を聞いていると、自衛隊に属する兵士たちが戦争に駆り出され、死ぬようになると人々は余り思っていない様に見受けられる。日本は永久中立を国是とできないのだろうか?世界に誇るような立派な憲法がありながら軍隊を持ち続け、「売られた喧嘩は買うぜ」と宣言しなければならないのだろうか?

人々がいつまでも平和を享受し、思いやりと慈しみをもって助け合う世界を築くのが現在の我々に課せられた責務ではなかろうか?この世界では、人々は全く違う環境や価値観の下で暮らし、それぞれの文化に基づいた幸福を追求している。つまり、それぞれが異なる意見を持ち、自己主張をしがちである。でも、それをしていると現在のように収まりがつかない世の中になる。違った意見を持ち寄って、妥協点を見出し、お互いが完全ではなくても、満足できる解決策を探る努力はしなければならない。それが国際協力であり、世界平和ではなかろうか?空也上人の言ったように、「俺が、俺が、の我を捨てて、お陰、お陰の偈に生きよ」という生き方を採用しよう。先ず、国民の間で議論しよう、納得しよう。そして、それが次世代の為に一番良いという生き方を選ぼう。それが私たち市民にできる世界平和建設の努力だろう。どう思いますか?