2014年7月31日木曜日

変わりゆく日本


最近の日本の変わり方を見ていると、なんとなく自分の成長過程に重なってくるように思える。そしてそれが私に不気味な予想と暗示を与える。従って、私は鬱々として、楽しい気分にはなれない。

私が生まれたのは昭和6年(1931年)である。当時日本は満州事変を引き起こし、国を挙げて国威発揚、軍備拡張に血道をあげていた。そういう世論を反映してか自分には「勝秀」などという勇ましい名前がつけられた。その後、日本は日支事変へ、そして、第二次世界大戦へと突入していった。アメリカに宣戦布告をしたのが昭和16年、私が小学4年生のときである。

当時は「鬼畜米英を駆逐しろ」だの「大東亜共栄圏を建設」などというスローガンの下、国民には考えることなど許されず「お上」の言うことを天からの命令とて拳々服庸することが期待されていた。小学校4年からは、「健康優良児」になれ、少年航空隊に入隊を志せと毎日のように刷り込まれた。

昭和18年には伊豆下田近郊の蓮台寺にある県立豆陽(とうよう)中学に入学し、寄宿生活を始めた。だが、すでに当時の戦況を反映して、中学校の講堂には軍人たちが起居しており、校庭は掘り起こされて芋畑に変換しつつあった。上級生たちは沼津の海軍工廠に学徒動員で駆り出され、我々新入生は、下田近くの海岸、須崎、に建築中であったレーダー施設の防御壁建設と、米軍の本土上陸に備えて海岸線に建築中であった地下壕の建設に駆り出された。海岸で土嚢運びをしていると必ず米軍の艦載機に機銃掃射を食らった。夜分は必ず「空襲警報」が発せられ、着のみ、着のままで防空壕に退避を余儀なくされた。かくして、私どもは勉強どころではなく、毎日空き腹を抱えて重労働に従事し、睡眠不足に悩まされていた。

昭和20年、私が中学2年の時に終戦になった。原爆が広島と長埼に投下され、数十万という国民が犠牲になった。日本中の都会が23の例外を除いて空襲にあい、多数の命が失われた。終戦の815日は夏休みの最中で、前日の14日に近隣の稲取という町が空襲にあい、多くの犠牲者が出た。私は稲取の親戚を見舞うとて、叔母と二人で山を越えて稲取に出かけた。到着してみると、「戦争が終わった」という、そして、天皇陛下が、これからは「耐え難きを耐え、忍び難きをしのべ」と国民にご詔勅を下さったという。稲取で終戦前日の空襲で破壊された惨状を見、奪われた市民の命を思うと、なんともやりきれない悲しみと空虚さに取りつかれたのを今でも鮮明に思い出す。

夏休みが終え、寄宿者に帰ってきた我々若者たちを待ち受けていたのは食糧難であった。戦争が終わってつくづく良かったと思えるのは、もう夜中に防空壕に退避しなくて安眠できることであった。でも、食糧難にはつくづく参った。寄宿舎の賄には食糧の貯えが禄になく、出てくるものと言えば我々が「天井粥」と呼んでいた重湯みたいなお粥と、大豆のしぼりかすのパン。いくら食べ盛りの若者たちでももてあます代物であった。そのうち占領軍が日本人は糖分不足だからと、カロリーを補えと砂糖を放出してくれた。賄では、砂糖は料理のしようがないと、各自に砂糖を配分し、私たちは自分たちで「カルメラ」を作りそれを食した。だが、学生たちはたちまち栄養失調を起こし、体中に湿疹が出たり、階段を四つん這いになって上がったりする始末であった。かくして、私と同年配、または、それ以上の人々は成長期には食糧不足、勉強しなければならない時には重労働で、まともな「人間安全保障」とは無関係の生き方を強要された。経験したのは国家の名における考え方を無批判に受け入れることと国民の人命の軽さであった。

その間、我々は米軍から「平和憲法」を頂き、戦争に無縁の国家に生まれ変わった。しばらくして、朝鮮半島で戦争がはじまり、日本は米軍の補給基地となり、食糧も徐々にゆきとどき、国民の生活も少し落ち着いてきた。同時に、「警察予備隊」が設立され、憲法9条の拡大解釈が始まった。

その後、東西冷戦があり、世界各地で殺し合い、紛争が頻発した。殺し合いは今でも続いているし、人々は自分たちの主張を声高に繰り返している。世界は今やアメリカ、中国、欧州に振り回され、各国は自国の権益を守ることに懸命である。わが国でも、平和憲法を変えたい、それがだめなら、9条の解釈を拡大し、集団的自衛権を!という掛け声で政府与党が平和国家日本を普通の喧嘩が出来る国家に変革しようと画策中である。心配なのは国民が、このような事態を「自分で」考え、将来をどうすべきかということを今迄のように他人任せにすることである。

我が国には、考えるのは「お上」または「上司」、国民や部下は従うのみという文化がある。その文化が今までは功を奏してこの国に繁栄をもたらし、我々はある程度の豊かさを満喫してきた。その為の国民の判断の基準が「お金」であり、経済性である。経済活動を活発化するためには原発再稼働しかないと言われればそうかと思う。命の重さはどうなんだという発想にはなかなか結びつかない。

今我々に必要なのは、すべての情報を公開して、国民全部で、日本の将来はどうあるべきかという討論であり、決断である。一部の政治家だけに任せておける問題ではない。国民の一人ひとりが良く考えて、責任をもって、わが子、わが孫の将来を決めて欲しい。

少なくとも、私の経験をこれからの世代には繰り返して欲しくない。若いうちには思いっきり勉強し、健康な体で、世界のために、世の為に貢献してほしい。充実した人生を送り、満足して一生を終えることを祈るのみである。