2013年5月20日月曜日

共存共栄を心がけよう


地球が、子どもたちの将来が、安全で平和であるためには、世界中の人々がそれぞれの考えや価値観に「違い」のあることを認め、違った意見を排除せず、裁かず、決めつけないことだ。人が100人いれば、または、国が100あれば、100の違った意見があると知るべきだ。自己の意見や立場を力ずくでも貫こうとすれば、そこにはおのずから摩擦が生まれる。相手の反発心をそそる。反面、お互いに思いやりの心を持ち、違った立場や、意見を、尊重し、そして、その多数の違った意見の中で、困っている国や人たちに思いやりの心をもって手をさし伸ばそうというような意見を言えば、おのずから多くの人や国がそのような意見に耳を傾けるだろうし、信頼を寄せてくれるのではなかろうか。

 

金子みすず(1903-1930)の約100年前の詩に次のようなものがある:

 

わたしと小鳥とすず

わたしが両手をひろげても

お空はちっともとべないが

とべる小鳥はわたしのように

地面(じべた)をはやく走れない

 

わたしがからだをゆすっても

きれいな音はでないけど

あの鳴るすずはわたしのように

たくさんなうたは知らないよ

 

すずと、小鳥と、それからわたし、

みんなちがって、みんないい

 

最近のやり取りのような相手を糾弾することをやめ、お互いに「違っていいんだ」という金子みすずの心を我が心とすれば、そして、多様性の中で調和を求めれば、各国の国民は安心して生活ができるだろう。世界は平和になるだろう。

                            Tho spreading my arms won’t make me fly,

                              A soaring bird cannot run on the ground as fast as I can.

Tho shaking my body won’t make me tinkle,

A tinkling bell cannot sing as many songs as I do.

                            A bell, a bird and me

                              Are all different but valuable.

 

平安中期に活躍した空也上人(903年?~972年)の言葉に「俺が、俺がの『我』を捨てて、お陰、お陰の『偈』に生きよ」というものがある。これはまさしく現代にそのまま通用する言葉で、世界中の『自己中』の人たちに採用してほしい生き方である。

 

世の中の人々が自分の生き方、考え方を主張せず、相手を排除する代わりに、お互いに助け合い、お互いに生かされて、毎日を平安に送れることを感謝すれば世界に平和は実現できる。現代に必要なのは謙虚な心とすべてに感謝し、世の中のすべてのものが「ひとつ」だと理解することではなかろうか。所詮、私たちが問題にしている「差」は私たち自身の自己中心的な考えと自分たちの権益を擁護しようとする心の産物なのだから、感謝と謙虚さが世を救うと言っても過言ではあるまい。

 

言うは易く、行うのは難い。だがやらなければならない。次世代のために、わが子、わが孫たちのために。さあ、考え方を改めよう、生活程度を改めよう、ほどほどに生きて、感謝と謙虚さをもって毎日を送ろう。

 


2013年5月4日土曜日

憲法記念日に考えたこと


 

53日は憲法記念日である。最近国内では憲法を変えようという声がひときわ高い。総理大臣をはじめとして政治家の中に、現在のアベノミクスが日本の金融界・経済界にいくらかインパクトをもたらしたので、これを期に憲法改正に持ち込もうという機運が満ちてきているように感ずる。そして、「まず」改正のために必要な国会議員の3分の2以上の賛成が必要とされている96条の条項を改め、それを2分の1に下げ、改定を容易にしようという議論である。国民の大多数は憲法改定に賛成していないか、慎重であるとの報道が先日流れたのであるが、この「憲法改正を容易なものにする」という手続き論には慎重に対応し、わが子、わが孫が20世紀前半に日本国民が舐めた苦悩を再現しないようにしなければならない。

だいたい、憲法手続き改正推進の議員たちの論理は欺瞞に満ちている。憲法改定に賛成の議員は、日本は自衛権・交戦権がないばかりに近隣諸国からなめられているというような発言を盛んにしている。彼らの真意は、日本は自国を自分の戦力で守れなくてはならない、交戦権も持つべきだということではなかろうか。問題は、この人たちは戦争がいかに悲惨なものか、いかに多大な犠牲を国民に強いるものかを知らない世代に属していることだ。

日本の憲法は世界でも稀な「平和憲法」である。それは戦争の放棄と戦力の不保持という永世平和を定めるものである。ところが、現実には、日本は戦争の放棄をしているが、世界でも有数の戦力を保持しているし、総理大臣が口にしているのはこれから軍事予算を増額するということである。そして、一部の議員さんたちが欲しいのは「自衛権」と「交戦権」だ。それらを入手するために、憲法を変えよう、まず96条から、と言っているのだ。この人たちの目的は国会議員過半数の賛成で容易に憲法を変えられるようにしようということだ。

本来国会議員というものは国民の代表であり、代弁者のはずである。ところが最近の政治家たちは国民の利益を考えて発言するという面が希薄で、自分たちが属するグループの利益や権益を守るという傾向が強い。国民の方はというと、自分たちで日本の将来を決めるために何をするかなどの問題はすべて「お上任せ」という感じで政治そのものを真剣に取り扱わないし、自分たちの将来を案ずることも少ない。

以上、簡単であるが、憲法記念日に当たって私の危惧することを述べた次第である。皆さんはどう考えるのだろうか?どう反応するのだろうか?本当に簡単に憲法改正ができるようにするのか、ハードルを高く設けた方がよいのか?

良く考えて、自分たちや日本の将来をどうするのかという結論を導き出して欲しいものである。