2012年2月10日金曜日

地熱発電


地熱発電                         北谷勝秀
 ウイキペディアによれば、「地熱発電は石油などの化石燃料を使わないクリーンエネルギーであり、日本では約5%しか自給できない天然ガスにも匹敵する貴重なエネルギーを国産で採掘できることから、原油価格やウラン等の核燃料価格の変動リスクがない国産エネルギーとして、見直しが進められている」そうである。更に、日本では「地熱発電が積極的に推進されていない」と述べている。その理由として「国や地元行政からの支援が火力や原子力と比べて乏しいこと、地域住民の反対や法律上の規制があるため」だとし、「発電所の候補地の多くが国立公園に指定されているが、1972年(昭和47年)に当時の通商産業省環境省の間で交わされた[既設の発電所を除き、国立公園内に新たな地熱発電所を建設しない]ことを約する覚書により、事実上発電所の新設が認められていない」と述べている。また、「国立公園以外の候補地も、近くに温泉観光地が存在している場所が多く、温泉の源泉への影響や景観を損なう発電所建設は地元の反対が根強い。例えば、群馬県嬬恋村では2008年(平成20年)に地熱発電の計画が浮上したが、その予定地が草津温泉の源泉から数kmしか離れていないため、温泉に影響が出る可能性が必ずしも排除できないとして草津町が反対を表明したが、科学的根拠はしめされなかった。草津温泉では、地熱発電と温泉との因果関係の有無を検証するための地下ボーリング調査等を行うことにも反対している」と記されている。
 どうだろう、この文章を読んで、皆さんはどうお考えだろうか?既得権は擁護されるべきだ、いや、古い時代遅れの法律や役所間の申し合わせで、新しく発生してきた問題は対処出来ない、とお考えだろうか?それとも、現在私たちに突きつけられている問題は「予想外」であったので、全く新しい取組みが必要だとお考えだろうか?実際には政府はこの「地熱」の問題に現遅まきながら取り組み始めたようである。ただ問題は、原子力発電(福島原発の大事故を受けて)の将来を、そして将来のエネルギーの供給をどう確保するのか、若し原子力発電を継続しないのなら代わりはどうするのか、太陽光、風力、地熱かというような総合的な視点や意見が前面に出てこず、今耳にするのは、原子力発電所の保安は今や心配ない、原発は日本の産業と将来の為に不可欠だというような議論に基づく推進論だ。
 原発に関して言えば、いろいろな政府の専門部会に「専門家」が出席して、専門的な意見を述べている。だが、これらの意見の多くは原発の継続、推進を大前提としている。反対意見の裏には、今更、新しい技術は取り入れても、実用に至るのはお金と時間がとても多く必要だ、だから現状維持だというような考えが見え隠れする。
 昨年三月に、日本は未曾有の大惨事を経験した。今までの常識や「想定」が当てはまらないようなスケールのものである。これからの日本には東関東大震災程度のものはもう起こらないだろうか?また想定外の事が起こる可能性はあるのか?
 専門家は狭い専門分野の知識や見識には優れている。ただ、彼らの苦手は総合的な、遠い将来を見据えたビジョンを持ちにくいということである。であるから、国民の生命や健康に大きな影響を与えるような問題は、一分野の専門家たちに任せず、さまざまな分野を横断した見識の高い人たちにお集まり願って人類の将来という見地から十分な議論を尽くしてほしい。政治家たちが立ちあがって、自分たちのグループの立場を声高に叫ぶのではなく、政党やグループなどの垣根を越えて、日本という国、その制度、日本人の為の真の福祉と安寧などを計ってほしい。国民が欲しているのは消費税がどうのこうの、2-3年前のマニフェストがこう言っているじゃないか、などの議論ではない。今必要なのは、全く新しい事態に遭遇して、日本人が一丸となって対処できる心構えであり、新しい「生き方」である。
頼むよ、政治家の皆さま。
でも、頼りに出来るのかな?やはり、国民一人ひとりが未来志向になることが必要なのだ。
chinet 

2012年2月1日水曜日

文化について



私たちがいろいろな問題について議論をしたり、対策を練ったりする場合、「文化」というものが大きな問題として立ちはだかることがままある。特にそれがいろいろな国の人びとのための国連あたりでの議論であっても、政府代表の中には自説を曲げず、自国の国益追求に夢中になっているケースを良く見かける。世界の為、環境の為、女性の為というよりは、目先の問題を自分たちが慣れ親しんでいる考え方で判断をし、たとえそれが建設的なものであっても自説にそぐわない意見を切り捨てることが多い。そして、そういう場合「伝統」であるとか「社会秩序」などという大義名分で自分たちの主張を正当化している。 そもそも「文化」とはある地方に住む人たちやグループが自分たちの間で、自分たちに都合のよい約束事を作り上げて、それを守るという行動である。そしてその約束事を守らない人々を反社会的だとして村八分にしてしまうことも良く見かける。これが一方では人間に保守性を与え、他方では違う意見に対して排他性を持たせる。 昔のようにそれぞれの地方や部落がお互いに交流せず、ひっそりと人々が暮らしている場合、それほど問題は目立たない。ところが、最近の様に地球規模問題がわれわれの生活を脅かし、立場が違う人種、性、生活様式、文化が世界的に解決を求めてくると、我々は戸惑い、問題の解決を先延ばしにしてしまう。現代の世界は目まぐるしく変化し、新しい問題を生み出し、新しい解決法を求めてくる。今までの常識や文化では対応できない。今我々に求められているのは、我々が安住してきた文化に基づく判断や行動ではなく、全く新しい考え方、行動であり、生活様式であろう。 女性問題を取り上げてみよう。正直言って、女性は生まれる前から世界中で差別されている。非常に多くの国や人種によっては、女性は男性に比べて不当な不利益を被っている ― 女児の妊娠中絶、就学や衛生面での差別、女性の性器切除、社会における発言権不在や差別など数えだすときりがない。これらの問題解決に当たって問題となるのが男子の考えかたと行動、すなわち「文化」である。女性はかくあるべきだ、という既成概念が非常に多くの男性たちを支配している。また多くの女性がそのような伝統的な文化を当然として受け入れている。このような状態が現代世界の矛盾と問題を増幅しているのだ。 現代の問題はわたしたちの発想や行動規範の根本的な転換を求めているのだ。私たちが作りだした問題は今や伝統的な文化や考え方では制御できなくなっている。私たちはその解決法をいわゆる「専門家」に任せて、官僚や企業家が問題解決計るべきだという思考形式を改めなければならない。言い換えれば、現在の地球規模問題はわれわれが作りだしたものであるので、それらを解決するのには、我々一人ひとりが真剣になって問題の本質にせまり、思い切った斬新な行動を起こさなければならない。一般国民はもっと勉強して問題の本質にせまらなければならない、そして一歩も二歩も踏み出して、長い目で将来を考え、自分たちの子や孫が将来どのような生活を強いられるのかという観点から解決策を打ち出して行かなければならない。目先の都合や、解決するのに一寸お金がかかりすぎる、面倒くさいなどという問題はいったん脇に置いて、長期的な解決策を打ち出して行かなければならない。福島原発の大事故の後を受けて、日本で今後原発を維持推進すべきか否かなどの議論は、国民全部が真剣になって考え、将来を見据えたものでなければならない。もう一つ気になるものに、女系宮家の創設に関する議論がある。そこで声高に語られる「伝統」だから女系宮家創設に反対だとか、かくあるべきだなどという主張は願い下げをお願いしたいものである。 世の中の多くのご主人たちは様々な企業、グループ、団体に属していて、それらの「文化」にがんじがらめになっている。つまり、自分の個人的な意見を中々主張できない。そのため、日本では物事がすんなりと決まらない、進行しないという現象が良くみられる。社会正義や常識的な議論が文化に基づく考え方によっていとも簡単に捨て去られてしまう。そして、後に残るのは庶民の感ずる「やるせなさ」であり、無力感である。こういう状態を解決しないと、この国はずるずると国際的な指導力も尊敬も失ってしまう。そしてその現象はすでに明白になりつつある。 日本がかっての様に自信を持って世界の為に、人類の将来の為に活躍しなければ世界平和は永久に訪れない。日本が立ち上らなければ私たちの子や孫の世界は希望のないものでなってしまう。そうならない為には、男性たちの「文化」に振り回されずに、女性, 母親たちの意見が尊重されなければならない。自分の子どもたちが平安であって欲しいと願うのはどの母親にとっても切実な願いである。そういう世界を実現させよう。女性、お母さん一人ひとりに少しでもそういう建設的な関与を願いたいものである。